宿坊の掲示板
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[3831]

題名:(改革)3/4「先生は書いてない?」キャンペーン

名前:ClearSky

MAIL 投稿日: 2023/04/03(月) 22:35 torproject.org (107.189.10.143)

■1.はじめに

先に創価学会の民主化に取り組む上で、様々な抵抗運動が可能であることを紹介した。

https://bbs1.sekkaku.net/bbs/axt2b9jvt8/log=3520
https://bbs1.sekkaku.net/bbs/axt2b9jvt8/log=3750

今回はその中の一例を取り上げてみたい。
これは既に幾つかの現場で試し始められている運動(キャンペーン)である。

「池田先生はもう執筆されていない」ことを多くの会員に知ってもらう運動である。
具体的には、以下のような行動である。

(1) 「先生は書いてない」と伝えていく
(2) 座談会(会合)での大白蓮華・巻頭言の朗読を拒否する
(3) 選挙などの活動を煽るために出されているメッセージを拒否する(伝達しない)
(4) 「おかしなことは止めよ」と声を上げていく

私は自分なりに調査・取材を行って、「もう、池田先生は書いてない」と考えている。
証言などは公開できないが、記事等の判断材料の一部はここに紹介する。

確かに、「先生が書いている」か「先生が書いていない」か証明することは難しい。
多くの嘘が罷り通っている学会で、真実を証明することは難しい。

また、証明を求めると先生や先生を必死に守っている方に迷惑が掛かる可能性も理解している。
それでも、このキャンペーンには意味があると考えている。

私は「先生は書いてない」と公言しているが、多くの会員の方が同様に声を上げるのは難しいかもしれない。
故に「先生は書いていない?」と最後に「?」を付けるのも一案である。

※ SNSやメディアなどで、「池田先生は昔から書いたことなどない」かのような記事が散見される。
先生の名誉のために言っておくが、先生は執筆されていた。更に、時代が下るにつれ、チームを作り、執筆したり、監修という形を採って、書籍や対談を編み出してきた。
海外識者との対談集においても、実際の会談を踏まえ、往復書簡を交わし、チームで対談集を編み出してきた。
先生の関与の度合いは様々だが、2010年5月までの御健在の期間で、先生の一貫した論調は確保され、更に先生ご自身で要所要所に加筆・訂正は行われていた。
そして、先生自らが執筆された、あるいはチームの原稿に加筆されたものは、当然、先生の意向に沿ったものである。先生の論調で書かれている。

全ての出版における「先生の執筆である」ことを検証するのは、聖教新聞社・学会本部の責任である。
2010年5月(6月)以降の執筆の証明には、先生の原稿や口述筆記用の音声、誰かの原稿に手を入れたなら赤ペンの修正原稿を公開するだけでよい。

しかし、今回主張するように著作を捏造した結果(疑問に対する証明を怠った結果)、会員が先生や学会に対する不審を抱かせることになった。
酷い事例だと、「先生は何一つ書いてない」等と言い出す者まで現われて、信心から離れたり、学会を去ってしまう人が出てしまっている。極めて残念に思う。
嘘やデタラメを流し、疑惑を抱かせ、人を信心から遠ざけてしまうのは愚かである。

更に私が問題だと考えるのは、2010年5月(6月)以降、現在に至るまで、数々の先生の意向に背いた主張が展開されていることである。
先生の論調で書かれた内容ならまだしも、先生の意向に真っ向から背き、先生の功績を破壊する内容なら、会員はこれを許すべきではない。

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■2.「先生は書いてない?」キャンペーン

2.1. 執筆否定の根拠
私が「先生は書いてない」とする根拠の一部を掲げておく。
今回、取り上げる内容は以下の3点である。

(a) 聖教新聞掲載の「四季の励まし」
(b) 小説:新・人間革命 第30巻 「雌伏68」
(c) 大白蓮華・巻頭言

上記の(a)と(b)に関しては、既に資料を公開してあるので、そちらを参照頂きたい。

https://drive.google.com/file/d/1IS_aH0v9hehxbq1XVHbINXT80V-2UeTQ/view
 資料: 9頁、四季の励ましに関して「1.3.1. 「2010 年 5 月」以降の学会」
 資料:30頁、小説:新・人間革命「(2) 第 30 巻(上)「雌伏」の章の間違い」

簡単に言えば、(a)「四季の励まし」は過去の著作の切り貼りである(第一回掲載にそう書いてある)。現在の先生が執筆されていないにも拘わらず、組織によっては、この執筆を以て「先生の御健在」の証拠としている。

(b)小説:新・人間革命 第30巻「雌伏68」とは、日刊の聖教新聞に掲載された小説の「雌伏」の章の第68回掲載分のことである。この内容は書籍には収録されていない。理由は「事実と違う」「先生がこの内容を書くはずはない」と指摘されたからである。
第68回の掲載分には、昭和55年(1980年)4月2日付の聖教新聞紙上に、第3代会長を辞任された池田先生の名誉会長名で「恩師の二十三回忌に思う」と題した所感が掲載された件が執筆されている。
先生が書いたはずのない「恩師の二十三回忌に思う」の所感は、①先生ご自身が山崎正友裁判で「ご自身が書いてない」ことを証言され、②森田理事長(故人)の証言からも、池田先生は書いてないことが立証されている。先生ご自身が書いていたなら、絶対書かない内容が新・人間革命 第30巻「雌伏68」には掲載された。

今回、上記の(c)に関して新たに追加した。簡単に記したい。
大白蓮華の巻頭言に関しては、過去の内容と内容と近年の内容を比較するとずいぶん異なる印象を受けているので、読者の中にも変化に気付いている人は多いと思う。
私が問題としたいのは、教義を変質させる内容を巻頭言に盛り込んでいることである。

==引用開始(大白蓮華2022年10月号・巻頭言「『民衆仏法』の本懐いよいよ」)==

戸田先生の最晩年、師弟して語り合った。
――あの鎌倉幕府の武家政権下で、熱原の三烈士をはじめ、何ものにも屈しない「師子王の心」の民衆が屹立した。ここに御本仏の「出世の本懐」の成就があり、この直系こそ創価学会に他ならない。だからこそ、戸田の命より大切なのだ――と。
これほど確固たる生命尊厳の哲理と人間への信頼で結ばれた民衆の連帯は、もう二度と築けないであろう。

==引用終了==

==補足:引用開始(大白蓮華2023年2月号18頁・世界を照らす 太陽の仏法)==

釈尊の一大事因縁が法華経ならば、大聖人の出世の本懐は、この妙法の五字七字によって、万人の成仏の道を開きゆく「民衆仏法」の確立にあったのです。

==引用終了==

※ 上記の補足:2023年2月号「太陽の仏法」では、御義口伝の「第三 唯以一大事因縁の事」の「此の五字日蓮出世の本懐なり之を名けて事と為す(御書716頁)」の講義の箇所で、大聖人はここでは「出世の本懐」は「題目の五字」であると述べられているのに、意図的に「民衆仏法の確立」を付加している。

教学理論誌としての大白蓮華を通して、少しずつこれまでと違う教義を浸透させているかのようである。
また本年2023年11月は、広宣流布大誓堂の完成から10周年ということで、今後も取り上げられていく可能性がある。

この背景を少し補足すれば、大誓堂が完成した、2013年~2014年頃は、「会則の教義条項」の改定が行われた時期である。

「会則の教義条項の改正」は、先生の指南に背き、教義を改定したことは周知の事実である(「遠藤文書」「教学部レポート」を参照のこと)。
先生から「大御本尊を否定するものではないよな」と念を押されたにも拘わらず、会長はじめ執行部は先生の指南に違背して、「大御本尊を否定」を強行した。出世の本懐も「大御本尊の建立」から「民衆仏法の確立」に変わった。
「教学部レポート」によれば、「『出世の本懐』の意味だって変えればいいんだ。独立した教団なんだから、変えてもいいんだし、変えられるんだ。」と最高幹部の一人が語った言葉が紹介されている。しかも、その通りの展開となった。
そして、大誓堂の学会常住御本尊(日昇上人筆)を「学会の大御本尊」にしようと画策した輩がいた。そして、池田先生に制止された(2013年11月)。

「大白蓮華の巻頭言(2022年10月号)」や「太陽の仏法(2023年2月号)」を通して感じるのは、大誓堂完成10周年となる本年、2014年の教義改定の失敗を糊塗しようとしているのでないかと危惧がある。
しかも、池田先生の名前を騙って、2014年の教義改変を正当化しようとしている。


2.2. キャンペーンの内容

改革の視点でキャンペーンの主張を記すと以下の一文になる。

「先生が書いてないものを、先生の名前を騙って、読者に購読させ、先生の御健在を偽装し、活動に駆り立てるのは止めるべきである」

これ以外にも、以下の主張も含んでいる。

「先生の名前を用いて、平和・外交・政治の方向性を狂わせるのは止めるべきである」
「先生の名前を用いて、教義内容を変質させるのは止めるべきである」
「先生の御了解がないなら、対外的な信用に関わる記事に先生の名前を用いることは止めるべきである」

これらの主張の対象は、会長はじめ学会執行部、本部職員・聖教職員は勿論であるが、会員を操ろうとする現場の幹部も含まれる。

なぜ、信濃町や現場のおかしな幹部達は「先生が書いてない」にも拘わらず、先生の名前を使うのだろうか?
それは(先生の名前を使うのは)、「会員を操作するため」であろう。
更に言えば、「先生は御健在」で、「今もなお執筆活動を行って」おり、幹部から伝えられる「活動方針・打出し内容は、先生の御了解がある」と信じさせる意図がある。
事実でないことを捏造/拡散してまで、会員を操作する。このようなことは、直ちに止めさせるべきである。

職員や幹部、その家族に本音を聞いたことがあるなら、既にご存じであろう。以下はやり取りの一例である。

「先生はお元気なんでしょうか?」→「分からない」
「先生が執筆されているのでしょうか?」→「先生が執筆されている訳がない」

と既に先生は執筆されていないと認識している。ある程度の役職以上の幹部は、先生が書いてないことを知っている。
末端の会員が知らないだけである。

次に、集団的自衛権や公明党の方針、教義改定などに関して、質問してみる。

「先生はご了解なんでしょうか?」→「当然、ご了解です」「重要なことも先生に確認しながら進めています」
「どうしてご了解だと分かるんですか?」→「先生は御健在で執筆されているからです」
「先生は執筆されてないんですよね」→「…」

これらをまとめると、次のことが言える。

・組織の打出しを効率よく遂行するためには、「池田先生の御了解」を使うのが効果的である。
・「先生の御了解」を基に、会員を操作する(疑問に思う会員を黙らせる)。
・「先生の御健在」を「執筆活動でアピール」し、執筆内容に「活動を煽る」内容を盛り込む。
・幹部は、「先生がご健在で、執筆活動している」とは信じていない(執筆は嘘だと知っている)。
・先生の論調に背く内容を拡散している(師弟不二ではない)。

つまり、幹部は虚偽を拡散し、会員を操作する。
嘘であることを知りながら、会員を活動させるために、虚偽を拡散する。
自分のために、先生を利用する。

「そんな輩は弟子ではない!」と、私は考える。
また、私が最も悪質だと考えることは、「嘘と知っていて会員を騙している」ことである。

あなたは、このことをどう思うだろうか?
あなたの周りの幹部はどうだろうか?

更に「会員操作のために、先生を利用する」など、とんでもない。
しかし、会員を率いる指導力もない、研鑽して力をつける訳でもない、肩書だけあって中身のない「おかしな幹部」達は、先生の名前を利用しないと会員を動かせない。

会員は「事実でないことには『おかしいではないか!』」と声を上げるべきである。
また、「先生を利用するな」と声を上げるべきである。
声を上げて、周りの人を覚醒させていくべきである。


2.3. キャンペーンの目的

「先生は書いてない?」キャンペーンを推進する目的に関して記したい。

(1) 会員操作を止めさせる
(2) 先生の意志を尊重する
(3) 先生の名誉を守る
(4) 教義の改変に加担しない

先生の意向に背く内容を、信濃町の誰かが書き、先生の名前を用いて出版・公開する。
先生の過去の功績を破壊し、貶めるだけでなく、平和を後退させ、人々を不幸にする。
これを許せば、全て先生が指示したことにされてしまう。
例えば、集団的自衛権の限定的容認などは、先生の意志ではないことは明白である。

創価学会の会員がこれらの嘘を許容し、悪の手先となって、悪を拡散していけば、世の中は悪化する。
先生の意志に反しているのに、先生の指導に背いているのに、悪に加担すれば、学会が悪になる。
それだけではない。先生が首謀者にされ、悪者にされてしまう。
「師弟」を口にする者が、師を貶めるのは、不義であり、不忠である。

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■3.キャンペーンのリスク

この「先生は書いてない?」キャンペーンにはリスクがある。
しかし、学会の将来と会員のことを考えると。どうしても実施すべきであると考える。

このことについて記したい。

リスクの一つは「先生にご迷惑が掛かる可能性がある」ことである。
具体的には、「先生の執筆の証拠」を捏造しようとする可能性がある。先生とその周りの人に負担を強いる可能性がある。

つまり、心ある人(達)が「証拠を示せ」と言えば、信濃町の心無い輩は「証拠を捏造する」可能性がある。
そうなれば、先生を必死に守ろうとしている人達を更に悩ませることになるだろう。
そういうリスクは確かにある。

しかし、現状を放置し続けるならば、会員は騙され続けることになる。
会員はおかしなことを強要され、不幸になっていく。
日本はおかしな方向に進み、国民は益々苦しくなる。
平和は破壊され、立正安国からは遠ざかる。

どうすればよいだろうか。自分なら何ができるだろうか。
心ある会員は考えるべきである。

私は「もう、先生は書いてない」と主張すべきだと考える。

何故なら、「いつの日か真実は明らかになる」からである。
どんなに嘘で覆い隠そうとしても、必ず真実は明かされる。
今でさえ、様々な真実が漏れ出している。時が経てば全てを明らかにしようと大勢の人が動き始める。

「今やる」か「将来、誰かにやってもらう」かである。どちらがよいだろうか?
私は「今やる」べきだと考える。
嘘を放置して、組織が悪化すればするほど被害は大きくなる。再建にもより多くの時間が掛かることになる。
ならば、リスクがあっても、今やるべきだ。

大聖人は経典だけを頼りに権力と真っ向から勝負されている。そして難にも値った。
開目抄に「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ」と仰せである。更に「諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」ともある。
ひとたび声を上げれば難が起きるかもしれない。否、必ず起きるであろう。

それは自分だけでなく、やり方次第では先生にもご迷惑が及ぶ可能性もある。
更に言えば、先生を必死で守っている人達に難が及ぶ可能性ある。
それでも、「今やるべき」ではないだろうか。

別の視点で考えてみたい。
先生は「止めろ」と仰るだろうか?
会員が騙され、無駄な活動を強いられ、不幸になっていくのに、嘘を告発するのを「止めろ」と制止されるだろうか?
先生に迷惑・負担をお掛けする可能性は確かにある。それでも、先生は「会員を守れ」と仰るのではないだろうか。

これを読んでいる読者はどう考えるだろうか?
私は「やるべきだ」と考える。

もし先生に圧力が掛けられるならば絶対に許してはならない。それは更なる捏造になる。
心ある人達で、智慧を絞り、力を合わせて全力で闘っていきたい。
更なる捏造を阻止し、嘘を暴き、しかも先生を守る。極めて難しい戦いとなる。
如何に難事であろうとも、必ず成し遂げなければならない。それが創価の闘いであると私は考える。

智慧ある人には智慧を涌かせて頂きたい。
心熱き人は更に熱を滾(たぎ)らせて頂き、共々に闘っていきたい。

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■4.注意事項

先に、嘘を暴けば、先生に圧力が及ぶ可能性を記した。
嘘を暴くべきであるが、その副作用に警戒する必要がある。

先生にご迷惑が掛かる可能性があるのに、「書いてない?」キャンペーンを行うべきなのか。
この点は、多くの懸念を抱く人がいると想像するので、もう少し掘り下げてみたい。

私は、「先生にご迷惑をかけても構わない」とは思わない。
また、「先生を守っている人に更なる負担をかけても構わない」とも思わない。
では、どうすべきか? 何に注意すべきか?

私はキャンペーンを推進すべきと決断した。その際、大切だと考える二点がある。

先ず、①「祈るべきは、先生の御健康」である。
先生の御健康を心配すべきである。

次に、②「守るべきは、会員」である。
会員を守るには、「先生が書いてない」ことを理解してもらい、騙されないようにすべきである。

これを踏まえ、現場での可能な対応を、具体的に考えてみる。

●「書いてない」と主張 → 「もう書いて頂かなくてよい」と主張

現場に「先生が書かれている」と主張する人がいるとしよう。
現段階では、各現場にはそれなりの数の方がいると思われる。
全国の組織には、純粋にそう信じている会員がいる。
いくら真実だからと、正義だからと言って、「純粋に信じているもの」を壊して良いとは私は思わない。
情報が不足しているだけの方もいるだろう。そう信じ込まされてきた人もいるに違いない。
そのような人には機会を与えるべきである。また、慈悲を以て教え諭していくべきであろう。
もしそうなら、どのような対応が可能であろうか?

以下のように主張するのはどうだろう。

「先生もご高齢になられました」
「もう『書いて頂かなくて良い』のではないでしょうか?」
「まだ先生に書かせるのでしょうか?」「いつまで先生に書いて頂くのでしょうか?」

また、以下のように提案するのも可能であろう。

「『もう書かないで構いません』
 『もう書かなくて良いので、お体を休めて頂きたい』
 とお願いすべきだと思います」

つまり、「もう先生は書いてない」との主張を展開する前に、「もう書いて頂かなくてもよい」「お体を休めて頂くべきである」との考えを伝えて、相手に考える機会を与えることも良いと考える。

別の言い方をすれば、「先生が書いている証拠を出せ」と要求するのではなく、「先生の御健康に配慮すべきである」と諫めていくことである。

●強制しない

これまで記してきたように、様々な反応が予想される。リスクもある。
私はやるべきだと考えるが、他の人にはそれぞれの状況もあるだろう。
自分と師匠の問題でもある。
改革に臨む一人ひとりが自分で考え、祈り、行動すべきである。
自らの姿で人に教えることはあっても良いが、他人に強制すべきではない。

いずれにしても、「もう先生は書いてない」との主張を通して、自分自身も、組織の会員にも考える機会となればよい。可能な限りの配慮をしながら、このキャンペーンを実施すべきだと私は考える。

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■5.最後に

「先生は書いている」のか「先生は書いていない」のか。

「書いている」と主張するなら、証拠を出すのは「書いている」と主張する側である。
即ち、学会本部・聖教新聞社である。そして、「書いている」と主張する現場の幹部・会員である。

一方、私が主張する「先生が書いてない」とする根拠は既に示してある。
即ち、「四季の励まし」「小説:新・人間革命 『雌伏68』」「大白蓮華2022年10月号・巻頭言」である。
私は、それらで十分であると考える。

先生の過去の指導の切り貼り、先生なら書かない内容。
都合よく会員を活動させるための、メッセージ、等々。
先生の御健在を演出したいのだろうが、師匠の扱いがぞんざい過ぎる。
会員のためにならず、社会のためにもならない。

但し、自分が分かっているだけでは、周囲が悪化する。
これに歯止めをかけ、流れを変えていけるのは、あなただけである。

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今回のキャンペーンを要約すれば、「座談会で『大白蓮華の巻頭言』を読むのは止めませんか?」と提案することとも言える。

私は既に「先生は『もう書いてない』と思います」と言っている。
書いてないと考える証拠を示しても信じない人もいる。

未だ自由な議論ができるなら、様々な意見が出るだろう。「書かれているに決まっている…」「もう書かれていない…」等など。
私は、その状況が大切だと思う。また、議論できる環境が必要なのだと考える。

一部の人間の主張する嘘が罷り通るような組織は、異常である。
異なる意見も聞かず、客観性に欠ける独善的な主張しか許さない組織は、独裁である。

「自由」で「平等」な「民主的」な組織でなければ、本当の「団結」など生まれない。
「異体同心」を強調して、異分子を排除する組織に未来はない。

正気に戻るには、きっかけが必要だと考える。
「先生は書いてない?」でそれができるなら、試してみる価値はある。




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