[3996] 題名:(改革)4/4 「良医病子の譬え」に学ぶ ~正気に戻す~
名前:ClearSky
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投稿日:
2023/04/12(水) 00:37
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■1.はじめに
法華経・寿量品に説かれる「良医病子の譬え」。
寿量品・自我偈にもあるが、長行を読誦していた人達にはまた懐かしいことだろう。
法華経・寿量品には多くの法理が説かれており、その一つである「良医病子の譬え」は、「永遠性の仏」が「衆生」を救うための手段として、入滅の姿を現じ、衆生を導く譬喩である。
この譬喩を通して、仏の寿命が長遠であること、方便としての入滅、永遠性の仏、等々、思索すべき内容は多い。
特に、「方便現涅槃」を譬えの形で示したものが、「良医病子の譬え」である。
「方便して涅槃を現ず」とは、本来は永遠(性)である仏であるのに、わざと死の姿を現して、衆生を救うことである。
これらの解説は、「法華経の智慧」と「法華経:方便品・寿量品講義」に詳しいので、是非読まれることをお勧めしたい。
今回は、良医病子のおける仏と衆生のやりとりを、現在の学会の現状に当て嵌めて考えてみる。特に「毒気深入」の視点に着目して記したいと思う。
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■2.寿量品に説かれる「良医病子の譬え」
先ず、この譬えに関係する人物を記しておく。
① 父親であり、医師である仏
② 毒薬を誤って飲んだ子供達(病子)が衆生
③ 子供達に正気を戻すために遣わされた使い
④ 毒薬を作った者(具体的には記されていない)
この四種の人が存在する。
次にあらすじを記す。
医師の留守中に、毒を誤って飲んでしまった子供達。
体に毒が回り、苦しみにのた打ち回る。
帰ってきた医師は、苦しむ子供達を救おうと素晴らしい薬を調合し、飲むように言った。
多くの子供達がいて、その症状は様々だ。
症状の軽い子供達は、素直に薬を飲み、回復することができた。
一方、毒気に深く侵された症状の重い子供達は、既に正気を失っており、父親の言うことも聞けない。
何とか子供を救いたい父親は、大いなる慈悲を出だし、智慧を涌かせて考える。
そして、「私は年老いて死期が近い」「ここに薬を置いておくので飲むように」「この薬で必ず治るから」と言い残し、他国に出かける。
父は他国から使者を遣わし、子供達に告げさせる。
「あなた達のお父さんは亡くなった」と。
実際には死んでないのだが、正気に戻すための手段として、「父の死」を伝えさせた。
毒気が深く入って正気を失った子供達も、父の死を嘆き悲しみ、正気を取り戻した。
こうして子供達は薬を飲むことができ、毒の病は全て治った。
やがて、これを知った父である医師が帰ってきて、回復した子供達と再会する。
「寿量」とは「仏の寿命を量る」の意味である。それは、仏の寿命は長遠であるとの意であり、つまるところ「永遠の仏」である。
「良医病子の譬喩」は、「永遠の仏」と「永遠の法」を、「医師である父」と「解毒する薬」を譬えていると考えられる。
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■3.考察
この有名な譬喩を幾つかの視点で掘り下げてみたい。
● 多様な病状…「或失本心 或不失者(ある者は本心を失っており、またある者は失っていなかった)」
毒を飲んだ子供達の症状は様々だった。
ここで説かれている「本心」とは「正気」の意味である。
症状の軽い、つまり、正気を失わなかった者は、医師である父の言葉に従い、父の作った薬を飲み、回復する。
一方、症状が重い、つまり、正気を失った者は、父の言葉も理解できす、却って違背し、薬も飲まず、苦しみにのた打ち回る。
飲んだものは薬ではなく、毒である。苦しいのは毒のせいである。解毒するための薬を飲むべきである。これが道理であろう。
まともな人は、「薬を飲めば良いではないか」と簡単に分かるのだが、「毒気深入・失本心故」の人達には、この簡単な道理が全く理解できない。
それほど、毒を飲んで正気を失った人を救うのは難しい。
● 救済方法
医師である父は子供達を助けるために薬を調合した。しかも、最高の薬である。これを飲みさえすれば快方に向かうはずである。
何としても、子供達に薬を飲ませたい。
しかし、自分が傍にいる限り、この「毒気深入・失本心故」の子供達は薬を飲まない。
だから、子供から離れ、他国に行き、そこから使者を遣わし「皆の父は死んだ」とまで言わせた。
どうして、子供は薬を飲まなかったのか? また、どうして、医師は死んだと偽ったのか?
先に紹介した講義・対談集を読んでの私の理解を記したい。
子供達は、「父はいつも傍にいて、自分を守ってくれる」と考えていた。
その父が死んだと聞き、子供達は悲しんだ。正気を失った子供達も同じである。
そして自分の頭で考えた。「父はもういない」「誰を頼りに生きていけばよいのか」「まだ毒が回って苦しい」「どうすればよいのか」
悲しみに打ちひしがれながらも、自分の頭で考え始める。そして、思い出す。
父は薬を飲むように言った。しかし、自分は薬を飲まなかった。
今まだ苦しみが続いているのは、全て、自分が父に逆らった結果である。
「自分はどうして薬を飲まなかったのだろう」「自分が間違っていた」
父は最初からそう言っていた。それを聞かなかったのは自分である。この時、自分の過ちに気付き、後悔した。
「父は飲むように言い残していった」「その薬は今もある」。そして、ようやく飲もうと考えるに至った。
「何故、薬を飲まなかったのか」それは「失本心故」だからである。正気を失っていたからである。
「どのようにして正気を取り戻したのか」それは「常懐悲観(じょうえひかん)」悲しみの心を常に抱くようになったからである。
心の悲しみが続かなければ、毒気を払い、正気に返ることはできなかった。
それほど深く毒気が入っていたと言える。
「心遂醒悟(しんずいしょうご)」…心は遂(つい)に毒から醒(さ)め、今起きている事態と病からの回復の手段を悟る。
こうして、正気を失った子供達も、ようやく父の残した薬を飲み、回復する。
これを読んでいる私達はこう思うだろう。「遅いよ」「やっとかよ」と。
しかし、それ位、毒が深く入ると、正気を失うものである。それほど、正気を取り戻すことは難しい。
毒に侵されてしまうと、人の話を聞いて、簡単に考えを改めることなど容易ではなくなってしまう。
毒に侵され正気を失った子供達には、想像を絶する悲しみが必要だった。
また、医師でもある父は、深い慈悲を持ち、考え抜いたからこそ、最高の方便(手段)を編み出せた。諦めずに救おうと決意したからこそ、子供達は正気を取り戻すことができた。正に慈悲と智慧である。
余談になるが、この話の中には詳しく書かれていないが、毒薬を作った輩がいる。
毒薬を子供達に飲ませようとした輩である。
毒薬を飲んだ子供達も悪いが、毒薬を仕込んだ輩はもっと悪い。
● 現学会との類似性
読者は既に気付いていることだろう。この譬えは、どこかに似ている。現在の学会の姿に重なる。
現在の学会を見ると、この譬えの最後のハッピーエンドは未だ訪れてないが、途中まではそっくりである。
少しだけ記してみる。
おかしな幹部とおかしな指導を誤って信じ、従ってしまった。
会員は、組織の幹部からの打ち出しに従うよう要求され、活動に駆り立てられ、更には理不尽な報告に迫られる。
組織と幹部の劣化は、次第に酷くなり、おかしな活動要求が増えてきた。
仕事や生活を犠牲にしろとばかりの要求に抗議すれば、「信心がない」とばかりの高圧的な態度である。
おかしな要求に従える者だけが登用され、ますます組織はおかしくなる。
「あなたの言っていることは『先生の指導』と違う」と言えば、役職を笠に着て、私の言うことの方が正しいと嘯(うそぶ)く。更には、「先生の指導は古い」「時代に合ってない」等とデタラメなことをいう輩も出てきた。
先生は2006年から2010年頃、「師弟」の重要性を強調していた。ある意味で、「師匠をどこまでも求め抜こうとする姿勢」に「正気を失わない」秘訣があるとも言える。
2010年5月、先生が公に姿を現さなくなった。これ以降、従来にも増して、幹部も活動もおかしくなった。
そして、今、様々なタイプの会員がいる。
(a) 師の言う通りに指導を読み、正気を失わなかった者もいる。
(b) 師の言ったことは「時代に合ってない」と思い上がり、自ら正気を失っていく者もいる。
(c) 「あなたはおかしい」「先生の指導と違う」と過ちを指摘され、悔い改めて、先生の指導を読み直し、正気を取り戻した者もいる。
(d) しかし、毒気が深入し、正気を失った者は師の残した指導を聞かない。忠告を聞こうともしない。
今の学会には、実に様々な会員がいる。
「而謂不美(にいふみ)」…(良医が調合した薬を)「美味しくないと言う」
先生の指導を紹介しても、「私はその指導を既に読んでいる」「当然、私は知っている」と真剣に聞こうとしない。中には傲慢にも「それは昔の指導で、今の時代に合ってない」と逆らう輩も多い。
経典には、「病子」は薬を飲むべきなのに、飲もうとしなかったことが説かれている。同様に、今の学会では、指導を学ぶべきなのに、真剣に学ぼうとしない。
「薬発悶乱 宛転于地(やくほつもんらん えんでんうじ)」…毒が効能を発して、悶(もだ)え苦しみ、地面を転げ回っていた。
おかしな幹部はおかしな指導をし、おかしな打出しを行う。
「従わなければならない」と思い込んでいる会員は、途方もない活動や報告に追われまくることになる。
自画自賛・師弟違背の一部の幹部と塗炭の苦しみに喘ぐ大勢の会員だらけの創価学会になってしまった。
喜んでいるのは幹部の側だけで、やらされている活動家は時間に追われ、活動に追われ、どうでもよい数字を要求され、苦しみもがいている。
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■4.現在の学会に於ける治療
次に、この「良医病子の譬え」通りに、病を除き、ハッピーエンドで終わらせるためには何が必要だろうか?
(1) 自分の頭で考える
皆を苦しめる「活動方針や打ち出し」は、「先生の御了解」を前提にしている。
しかし、本当に「先生はそんなことを御了解された」のだろうか?
「先生の指導」に学べば、おかしな幹部の打出しは「先生の指導」に違背していることが分かる。
例えば、集団的自衛権の行使容認や2014年の教義改変などの問題は少し学べば容易に分かるはずである。
故に、今の打出しに「先生の御了解はない(可能性が極めて高い)」と言える。
先生の指導をまじめに学ばないから、分からないだけである。デタラメな幹部に騙されているだけである。
では、「会員は、何故『先生の御了解』を信じている」のだろうか?
① 「会員が先生の指導を学ばない」ことについては先に述べた。
第二の理由として、② 「先生の名前を騙った『執筆活動』や『著作』が『池田先生の御健在』に利用されている」からでもあろう。少し補足する。
先ず、「執筆活動・著作」、いわゆる「メッセージ」「大白蓮華の巻頭言」「四季の励まし」等は「先生の御健在」の証拠のように語られる。
次に、「先生の御健在」を根拠に、全ての活動が「先生の御了解」であると正当化される。
更に付け加えれば、「先生がご健在なのだから、学会は間違わない」「先生がご健在なのだから、もしも何か間違っていれば、先生は修正してくれているはず」との思い込みや出鱈目な指導があるのを忘れてはならない。
正気の人が「先生の指導と違うではないか」と諫めても、「御健在の先生がいるのだから」「組織が/公明党が/打ち出しが間違っているはずはない」との返事が返ってくる。実際にそう信じている人もそれなりにいる。
そして、逆に「正気の人」が、「毒気深入の幹部・会員」から「組織や先生に逆らう『反逆者』」にされてしまう。正に、顛倒である。
先の譬えに倣えば、「先生は2010年5月を最後に、公には表には出られなくなった」「この先、誰を頼りに…」と考えるようになれば、自分の頭で考え始めていると言えよう。
「確かにメッセージは届いているが、直接会ったり、指導を受けたりした人の話は聞かない」「もし先生がお元気なら、誰かに声を掛けるはずではないかな(お元気ではないのかも…)」「お元気なのに、わざと会わないなんて、先生はそんなに意地悪ではないと思うな」「幹部はいつも『何か意味があるのよ』というけど、意味があった験しはないからな」等々。
論理的・合理的に考え始めるようになれば、直ぐに分かることである。
既に、先生は御健在の時に幾度も「言い残しておく」と語られ、数多くの指導を残されている。それらを読めばよい。
「今、先生は書いてない」ならば「残された指導を学ぶ」しかない。
そうすれば、騙され続けた者が「騙されてたこと」にようやく気付くであろう。
(2) 「遣使還告」…使者が教えてあげる
「正気に返る」「自分の頭で考える」には、どうすればよいだろうか?
自力で解決できる人は稀である。何らかの「きっかけ」が必要である。
寿量品では「使者を遣わした」とある。自力で解毒するのはかなり大変である。第三者が使者となって、正しい指導を教えてあげる。
今の学会では「正気でいる人」が使者となるしかない。真の弟子が使者となって病子の毒気を払い、病子を正気に戻すしかない。
この際、「慈悲」と「智慧」が大事である。売り言葉に買い言葉ではいけない。題目を唱えて、「慈悲」と「智慧」を涌かせるべきだ。
では、何を告げればよいのだろうか?
何ができるのだろうか? どうすれば救い出せるだろうか?
皆で智慧を涌かせて考えるべきである。
一つの提案として「もう先生は書いてない」との主張を展開することも可能であろう。
先の「先生は書いてない?」キャンペーンである。
https://bbs1.sekkaku.net/bbs/axt2b9jvt8/log=3831
「お元気な池田先生が執筆を続けている」と幹部は口にする。
これが事実でないなら、それは「洗脳」であろう。
創価学会が組織を上げて、会員を洗脳し、会員を操作していることになる。
私はこのような行為は間違っていると主張する。会員が立ち上がって、これを阻止してこそ、健全な団体であることを証明できると言えよう。
・各地域への「メッセージ」。
・大白蓮華の「巻頭言」「太陽の仏法」。
・聖教新聞の「四季の励まし」。等々。
中でも、大白蓮華の巻頭言を座談会で朗読していることだろう。これは全国的な慣習となっているようだ。
しかし、先生が書いてない文章を、会合で朗読している姿を、私は異様だと感じる。
外部の人達には尚更であろう。これでは、カルトと呼ばれても仕方ない。
「先生が書いてない文章」を「先生が書いた文章」と偽る。
この捏造で騙された人には、純真な会員も多い。何十年も学会のため、会員のため、地域のため、平和のためにと活躍してきた人達も多い。純朴で、まじめな会員である。
この人達を騙し、操作する。仏ならば、このような卑劣な行為を許してはならない。
確かに、騙されている人にも責任があるだろう。しかし、「騙されている人を馬鹿にする」べきではない。
人を「騙す輩」が悪い。まじめな人を騙し、自分の都合の良いように操る奴が悪い。
また、騙されているのをそのまま放置する者も悪い。騙されている人を騙され続けさせる行為である。直ちに止めさせるべきである。騙されている人を救い出すべきである。
また、先生が書いてないメッセージを、おかしな幹部が必死に書き写して持ち帰り、現場の会合で朗読する。有難そうに大勢に伝えている。メッセージの内容は「煽り」である。
選挙が厳しい地域など、最終盤には幾度も流れてくるはずだ。
メッセージがそんな使われ方をするのなら、もう止めるべきである。そして、おかしな幹部から、おかしな活動を強要される必要もない。
可能であればだが、座談会の企画の際に「大白蓮華の巻頭言の拝読は止めましょう」「『先生は書いてない』と思いますよ」と言ってみるのも一案である。
既に、一部の現場では、この取り組みが始まっている。
大聖人の時代さながらに、悪口罵詈される。しかも、同志と信じる会員からの攻撃である。かなり凹むことだろう。
それでも、続ければ、先生のことを心配する人も現れる。
語り続ければ、「確かにそうだよな」と考え始める人も現れる。
僅かかもしれないが、「正気」を取り戻しているのに違いない。
「このままではいけない」「何か手を打たなければ…」と思う人がいる。試してみればどうだろうか。
これは、一日、二日の仕事では終わらない。長期戦になるだろう。相手は毒気深入の正気を失った人達である。簡単ではない。
それでも実践する価値はある。
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■5.最後に
そもそも、「大白蓮華」には「先生なら書かない」と考えられる内容が書かれている。
それは「先生利用」を通り越して、もはや「先生違背」の内容である。
放置すれば、先生の意志と真逆のことが拡散されてしまう。後世に嘘を残すことになる。
ここまでくれば、もう信じるべきではない。
ここまでくれば、もう放置すべきではない。
「先生は書いてない」と伝えることで、「騙された人を正気に返らせる」ことができるなら、「先生は書いてない?」キャンペーンを展開する価値はある。
事実、正気に返った人達、正気でいる人達は、皆、「先生は書いてない」ことに気付いている。
「『先生は書いてない』と思うか否か」が、「正気か否か」のバロメータである。
正気でない人の多くが「先生が書いている」と信じ込まされている。配慮しながら、これらの人を救い出すべきである。
このキャンペーンには、「会員を正気に戻す」ことに加え、もう一つ目的がある。
それは「毒を流し続けている輩を見つけ出す」ことである。
経典には、「飲他毒薬(誰かが作った毒薬を飲んでしまった)」とある。
今も、誰かが毒を作り、そして、毒を飲ませ続けている。
そんな輩は信濃町にもいるが、現場にもいる。
そんな輩はいなくなってもらった方が良い。辞めさせるべきである。追放すべきである。
今後のために、将来の学会のために、そんな輩をあぶり出す必要がある。追放する必要がある。
嘘を作る輩、嘘を拡散する輩を見つけ出さなければならない。
そして、その罪を暴くだけではない。「創立100周年の目前、こんなことが起きていた」と記録し、後世の戒めとすべきである。
更に言えば、「先生は書いてない?」キャンペーンから、2010年5月以前の「先生の指導」を学ぶ機運が高まることを期待したい。