| ■ 設計者と研究者の往復書簡(メール) rsa |
■ 返信 |
最近、富田 泰二 氏(理 科捨さん)の掲示板で話題になったことや 拙作の新規コンテンツなどに絡んだこと、その他について 大学時代からの親友で、現在大学の建築史専攻の助教授をしている溝口 明則氏 と久し振りに連絡が取れました。 内容をピックアップしてご覧いただくよりそのまま見て頂いた方が解りやすいかと思い、氏にも了解が取れましたので、此処に掲載させて頂きます。
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溝口 明則 様
おはようございます。 おう、いたいた、お久しぶりです。 返信がなかなか無かったので、日本にいないのかなと思っていました。 体調を崩されたとか、ほぼ回復と言うことで一応安堵しています。
メール差上げた時よりだいぶ進んでしまいましたが、当時ご教授頂いたことなどのコ メントでも結構ですし、一通り完成してからの感想やら間違いのご指摘、さらなる解 説でも宜しいのですが、ゆっくりでかまいませんので一筆いただけるとありがたいで す。
あの後WEB仲間でちょっと話題になっったことがあります。
斗が、繊維方向横使なのですね 写真でもなかなか判読しにくいのですが、まず間違いなく横使ですね 【木口斗】が特殊に使われているケースがある と言う記述からもそれが解ります。
さてそれが何故横使なのかと言うことなのです。 圧縮力を受けるなら当然縦使ではないかとおっしゃるのです。 繊維方向絡みの収縮の問題はどうなのか?とか
私は、法隆寺の雲斗供のように本来、斗と肘木は一体だったものが加工性の問題など で夫々の部材に分割されたのではないかと推測しています。 意匠的にも横架材と認識されていたのかなと。 又分割された後も竪使では斗の决られた残りの部分(大斗の四分一部分様)が竪使の方 が肘木等の横力により割裂し易いのではと考えています。事実斗助けや斗繋ぎなどと 言われるものでこの部分を補強しているものがあると記述されています。 唯、横使でも巻斗(に限らないが)はかえって割裂し易いかなとも思ってしまう次第で す。 又、斗尻から斗刳りを経て斗尻面積からそれなりにかなりのキャンチレバーになって いることも事実ですよね。軒方向に肘木が鉛直荷重を受ければ斗刳り部分で剪断割裂 の危険があるのかなと。事実、巻斗は軒先方向に傾いたりつぶれたりしているものが 多いそうですね。
今ひとつ、暫く考えていたことがあります。 荘厳というのでしょうか?所謂彩色塗装ですが、これは堂宮伽藍には創建当初はほと んど施されていたのでしょうか?どのくらいの割合で施されていたか? 時代関係はどのようなものか? これらの系統立てて説明した文献を知りません。 というのは、私は日本の【侘び・寂び】と言う感覚がこの辺と少なからず関係しているの ではないかと最近思っています。 創建当初は極彩色に荘厳されていた、それが経年変化によって剥落ちた。結果あの木 肌の露出した一種独特の雰囲気を醸し出している。何も現代のことでなくても、 利休の時代であってもそのような状況はあったのではないだろうか・・・とか?
とりとめもなく書いてしまいました。 お時間のある時にでも少しばかりご意見をお聞かせ下さい。
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関崎さん
久しぶりです。変わらず旺盛な研究心ですね。 たしかに斗を縦の方向で使ったという例をあまり見ませんが、たしかに荷重によって起こる亀裂の問題も大きそうに思います。 ただ、繊維に添った横方向の方が、とくに敷面の加工がやりやすいように思います。 肘木の下面によって隠れてしまう場所ですから、仕事は意外にゾンザイだったりしますが、 鋸が入らないので鑿中心の仕事になりますから、繊維に直角に、敷面を平滑な面に加工するのは、 結構大変だったと思います。 敷面の加工だけを見れば、繊維が横方向である方がやりやすいはずです。 古い時代の加工の経験が、中世以後も常法として残ったということかも知れません。
たしかに変形したりつぶれた組物の例も少なくないと思いますが、鎌倉時代以後は、原則として屋根荷重は野小屋の桔木が支持しますから、組物はいわば化粧材という認識があったと思います。 実例では、土居桁の位置によってはかえって組物に負担がかかってしまうこともありますが。 しかし古代と違って、組物は屋根荷重から解放された化粧材、という認識があれば、加工が最優先であっても不自然ではないでしょうね。
アンコールワットの石も面白い性格があって、やはり繊維が横使いです。石にも目があって、土中の堆積の過程で横向きの目ができるそうで、ワットでは8割以上が目を横に、つまり切り出す前の状態に合わせて積載されているようです。うちのチームの岩石班の調査結果です。柱だけは別で、これだけはどこでも縦目です。 しかしアンコールトムの中心寺院バイヨンでは、縦目に配した石が多く、その結果、遺跡の痛みがひどくなっています。 やはり荷重に負けて縦に亀裂が入り、破砕している場合が多く、当然ながら修復時に再利用が難しく、新材補填の割合が多くなります。
さて、中国の組物の古い事例は極端に少ないですが、石に写されたものや画像石のレリーフ、焼物の雛形などの遺物から見る限り、斗と肘木はやはりもとから別物のようで、 法隆寺金堂などの雲斗雲肘木は、相対的に例外的なものと考えられています。 この奇妙な一体の組物は、玉虫厨子に見られるように、小規模な建築形の厨子などに写されたときに簡略化されたものを、当時、よく分からずにそのまままねて本物の建築にしてしまった、という意見もあります。 上重の出の方向の力肘木は、柱の内側で切り落とされていて、構造がよく分かっていなかったという議論の根拠になっていると思います。塔なら梁行を貫いて正面から背面まで、一材を使った架構とするところです。 という訳けで、雲斗雲肘木が本来の起源であったかどうかは難しいところですが、たしかに起源に近いともみえる独特の素朴さを感じますね。 本当のところ、斗がなぜ必要だったのかいまだに考えあぐねています。南アジアでは舟肘木様の組物も発明されていますが、斗にあたるものがありません。桁を三重にべたりと重ねて上に行くほど鼻を伸ばし、最上の梁の鼻で丸桁を支えることで軒を深くとる、という構法をとっているものを幾つもみてます。 これでも十分なはずで、斗の出自がうまく理解できないでいます。
さて荘厳の件です。古代寺院の荘厳は鳳凰堂などのように内観に結構残っていますが、外部でよく残っているものはたしかに少ないと思います。どの程度の割合か、ということになると難しいところがありますが、古代では一応100%彩色の荘厳がなされ、中世では西国では結構多く、東国が白木のまま、という傾向があると思います。 中世の東国と西国の違いは、東国の板壁、西国の土壁、東国の檜皮葺、西国の瓦葺という傾向もあって、要は木工以外の職能の成熟度や座(ギルド)の職権、仕事のとりあいと関わること、と考えられています。 彩色についても同様ですから、中世は全体的傾向としては6:4から7:3の割合で彩色の荘厳が多いと思いますが、単に西国の方が遺構の数が多いという傾向が反映していると思います。まぁ、どちらにも例外はありますが。 ただ、中世では禅宗様は彩色を施すことがほとんどなかったと思います。これは西国の仏殿でも同じです。 しかしこれも、当時の中国の影響なら、もっと彩色がなされていていいはずで、生産組織の問題かも知れません。 近世以後なら、禅宗様に極彩色の荘厳を施すことは普通のことで、霊廟建築がいい例だと思います。 もっとも禅宗様を主体に長押を打って縁を巡らしたりしますから、禅宗様主体の折衷という事例が多いですが。
利休の時代の建築は、経年変化によってずいぶん古色を加えた建築があったはずです。古代の遺構なら、この時代のすぐ後に大改修がされたものが多く、江戸幕府の初期の時代に、各地で修造がなされています。法隆寺金堂も慶長年間に大きな修理がされていますし、唐招提寺金堂も元禄になって修理されています。東寺の五重塔もこの頃です。 ですから、古色に美を見出す、という経験はこの時代にはありえたと思います。ただ、野のひなびた民家などを愛でる感覚があって、人の手によって計算されたデザインを越えた自然性、無自覚さ、ヴァナキュラーであることに美を求めるという感覚が第一義にあるように思います。ここに古色、ということも関わるようです。 しかしヴァナキュラーを意図的にデザインするという矛盾した点に、ちょっといやらしいデザインに落ち込んでしまう素地があって、そのあたりのわざとらしい点が鼻につくこともあり、好きになりきれないでいます。
※ 改行調整以外原文のままです
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11252005年05月23日 (月) 00時18分 http://homepage3.nifty.com/rsa/ |
| ■ 納得しました Rito |
■ 返信 |
rsaさん、積極的な研究心すばらしいですね
>ただ、繊維に添った横方向の方が、とくに敷面の加工がやりやすいように思います。 >肘木の下面によって隠れてしまう場所ですから、仕事は意外にゾンザイだったりしますが、 >鋸が入らないので鑿中心の仕事になりますから、繊維に直角に、敷面を平滑な面に加工するのは、 >結構大変だったと思います。
とても説得力のあるお話ですね...これはとても納得しました。 なんで気がつかなかったのだろう...やはり僕は自分で木を【きざんだ】経験がないからかな^^汗
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| 11262005年05月23日 (月) 12時26分 |
| ■ 斗? 理科捨 |
■ 返信 |
確かに、なぜ斗が必要であったかは、今まで疑問を持たなかったけど・・・風通しが良くなるってことじゃないだろうし。 斗供として完成されたものを見ると、伝統の美を感じるけど・・・なぜ肘木と斗が分離したのか・・・出自において、ある程度はっきりした理由があったはずだとは思うのですが。 rsaさんがおっしゃるように当初一本ものだったのが、木取の効率性で分離したのか・・・大きな断面部材が入手しがたくなったのか・・・中国では古い遺構が残っていないので、絵とかで類推するしかないんだろうけど、実物じゃないと木取りとか樹の繊維方向は分かりませんよね。 ますます、面白くなりそうですね。
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| 11272005年05月24日 (火) 12時56分 |
| ■ 出自 rsa |
■ 返信 |
みなさんこんにちわ
>出自において、ある程度はっきりした理由があったはずだとは思うのですが
ですよね、溝口氏言われるように、南アジアではべた肘木で持ち送りしていると言うし。構造的にはそれで良いわけだし、純粋に【デザイン】だけでしょうか? 劇的に違うわけですよね。
ピン節点のベアリングと取るにはあまりにうがちすぎだし^^; 鉛直方向の高さを稼ぐと言う意味では意味がありますよね、長物の肘木を全体に成のある物をつかわなくてもすむ、微調整も可能、所謂パッキン的な使い方? む〜〜
中世では斗供が構造的役割を担わなくなったというのも興味がありますね。 私などはそれは【イヤなこと】ですけどね(-_-;) 事実は事実だものな
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11282005年05月24日 (火) 13時09分 http://homepage3.nifty.com/rsa/ |
| ■ (;´▽`lllA`` れっど |
■ 返信 |
すごいなぁ・・・・・ これをメール・・・・・・(;´▽`lllA``
おいら メール打ってる間に寝てしまいそう・・・ とっても いいお勉強になりました。
新コンテンツも拝見したピョン! 今の工事する時に いろいろ調べたんだ 最近ではSTKRとかSNとか鉄骨の特記にいりいろかかれてるから うかうかしてらんねぇ〜
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| 11402005年06月12日 (日) 15時19分 |
| ■ 溝口 先生メール 代理UP rsa |
■ 返信 |
2005.07.11 溝口 氏
関崎さん ProBBSの文章,読ませてもらいました。皆さん研究熱心ですね。 なぜ,斗が現われたのか。必要だったのかは,じつは薄々そうではないか,と思っている 仮説があります。何の根拠もないんですけれど。 それにはまず,組物について考えなおしてみる必要があります。 組物の本来の意味は,もちろん丸桁を柱芯から外へ送り出すことで, 軒を深く取ろうとする工夫です。 大体,世界規模で,木造建築はある段階で石造に置き換えられていきましたが, 中国だけは木造のまま耐用年限を延ばす工夫を続けました。 1.瓦の発明 2,礎石柱の発明,3,基壇 4,金属コーティング(丹塗) 5,軒を深く取ること(瓦の荷重の下で) というような工夫です。全部揃うのに,1500年くらいかかったことになります。 この,5,軒を深く取ること,という工夫の中に,組物と二軒(飛檐軒と地軒)とがあります。 そういうわけで,組物の意味は明快なのですが,しかしいきなりこういうことがめざされた わけではありません。 組物の起源は,おそらく瓦の発明に深く関わっていると思います。瓦を葺くということは, 屋根荷重が一挙に肥大するわけで,これを支える梁に大きな負担が現われることを意味します。 梁の中で一番負荷がかかるところは,柱間の中央とも見えそうですが,柱の直上部だと思います。 梁にしてみれば,下から柱で突き上げられるからで,したがってどこの文明でも「柱頭」が現われて, 梁の負担を緩和する,という方策が取られているのだと思います。 このとき中国では,たぶん「大斗」が生まれたのではないかと思います。 ここにさらに肘木を加えたとき,大斗と梁の組み合せを,肘木の上でも繰りかえそうと したのではないか,と想像しています。一回り小さい斗を,肘木の上に載せるわけです。 三斗構えのような固定した形式が出来上がった後,いつの時代かに,これを直角に組み合わせる (枠肘木を発明する)ことで,丸桁を外に送り出そうという工夫が生まれたはずです。 ここにまた「コウ」という,屋根面の下に沿って設けられる斜材で丸桁を送りだす,という 別の工夫も組み合わされると,尾垂木付組物が生まれることになります。 組物の第1段階の出自は梁の保護であり,この時代のうちに,すでに結構複雑な斗と肘木の関係が 出来上がっていくのだと思いますが,つまりは瓦が重いからですね。しかし丸桁は,まだ柱直上にいます。 そして第2段階で,今度は持ち送りとして発達をはじめる,というふうにイメージしています。 初期の過程で大斗を発明したこと,つまり肘木とは別に,独立したものとして生まれたこと と,さらにこのスタイルをもっと上部で繰りかえそうとしたために,斗と肘木の組み合せができた, ・・・のかな,と思っています。
ProBBSの文章を読んでいるうちに,ちょっと加えたくなりました。よろしければBBSに使って下さい。 どうもいきなり書き込みにくくて・・・
あぁ,3Dの別ヴァージョンは,ちょっと時間がかかりそうです。あれでよろしければ, Graphicsの頁にでもアップしてくださってかまいません。いずれ全面的に修正をします。 今度は勾欄を直して,仏壇に格狭間も入れたいと思っています。ともかく光をもう少し 何とかします。
rsa記 一部私信的なところのみ省略しました。
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11572005年07月12日 (火) 11時17分 http://homepage3.nifty.com/rsa/ |
| ■ なるほど rsa |
■ 返信 |
極論をすれば 【大斗】そのものは柱頭もしくは柱頭部の梁の保護、それ以外は進歩の過程でたまたま在る物として受継がれたとでも言えるのでしょうか
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11582005年07月12日 (火) 11時21分 http://homepage3.nifty.com/rsa/ |