ノーベル賞の治療法 投稿者: 木器 投稿日:2024年09月11日 (水) 11時01分 [返信] No.2074 |
たしかhato-ujiさんのおっしゃっている「がん免疫チェックポイント阻害剤」の一つであるオプジーボという薬は、ノーベル賞を受けた京大教授・本庶佑さんの研究に基づく治療法だったのではないかと思い出し、改めて調べてみたらそのとおりでした。
本庶さんの研究は、「免疫抑制の阻害によるがん治療法の発見」というものですが、ちょっとわかりにくいのは「抑制」と「阻害」という否定語が並んで、二重否定になっている働きだからでしょう。
もともと外敵をやっつける力を持っている免疫細胞には、その力が効きすぎると害になる場合があるので、その力にブレーキをかける装置、免疫システムのチェックポイントが付いているそうです。 ところががん細胞というのはなかなか悪がしこくて、このチェックポイントを悪用し、免疫細胞の働きにブレーキをかける、つまり「抑制」をかけることがあるそうです。 そのため、せっかく免疫細胞があっても、その働きが発揮されないまま、がん細胞が勢力を増してしまいます。
そこでこの「抑制」の働きを「阻害」することができれば、免疫細胞は本来のがん細胞を攻撃する力を発揮できるようになるという着眼が、ノーベル賞につながったということでしょう。
つまり、hato-ujiさんの受けた「がん免疫チェックポイント阻害剤」とは、人間が本来持っている免疫細胞の働きを邪魔するものを取り除き、免疫細胞の本来の働きをしてもらう、そのための薬ですから、がん細胞を直接攻撃する劇薬とは違って、副作用も少ないということのようです。
hato-ujiさん本来の優れた免疫細胞が大活躍できる、理想的な治療法に出会えたのではないでしょうか。このノーベル賞級の治療に、大いに期待したいと思います。
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この街で 投稿者: おたぐり 投稿日:2024年09月11日 (水) 10時21分 [返信] No.2073 |
私は昭島市主催の「歌おう会」というサークルに参加して、月一回、いろいろな歌をうたっています。30人くらい集まり、皆高齢者です。 先月講師の先生よりリクエスト曲があれば提出して下さいと要請がありました。私は先生に歌ってもらうつもりで「この街で」を出しました。 この曲は我が華齢なる合唱団が2013年に飯田の音楽祭で歌った曲です。その後耳にしたことはありませんでした。 今月、先生がリクエストの中でいい歌があったので歌いますと「この街で」を紹介しました。 先生(音大卒、歌唱指導などをしている)はこの歌を知らず、ネットで聴いて気に入り練習したようです。大変感動したとのこと。 ちなみに会員で知っていたのは3人でした。 この歌を華齢なる合唱団に紹介してくれた人に感謝です。(多分、木器さんあたりでしょう)
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hato-ujiさん、ありがとう! 投稿者: 木器 投稿日:2024年09月11日 (水) 06時25分 [返信] No.2072 |
hato-ujiさん、すこし漏れ聞いてはいましたが、ご本人から詳細なご報告があり、それも極めて明るい方向を示していて、本当にうれしく思いました。
hato-ujiさん、つくづく思います、現代の医療はまこと大したものです。日進月歩とよく言いますが、日に日に新たな療法が開発され、成果を上げているようです。 もちろん、ご自身の持って生まれた生命力と日々の節制、それに歌や音の力もあるでしょう。 この分だと、hato-ujiさん、大丈夫、絶対いけます! がんとの共存どころか完治を目指し、最先端医療を信じましょう!
軽はずみなことは言えないでしょうが、ご本人のこのご報告は、我々同期の人間にとってすごい救いになります。もちろんご本人が救われるのが最優先ですが、そのおかげで私のような能天気な人間まで、明るい展望が持てて助かります。 この投稿は、大変ありがたいご利益をみんなに与えてくれると思います。 ありがとう! hato-ujiさん!
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近況報告 投稿者: hato\uji 投稿日:2024年09月10日 (火) 16時14分 [返信] No.2071 |
大変ご無沙汰しています 明るく、気持ちを元気にさせてくれる書き込みが多い中で、ちょっと湿っぽい書き込みですみません。 実は胃がんが見つかって今治療中です。でも良い薬のおかげで今は普通に近い生活をしています。 昨年暮れに、自覚症状は全く無かったのですが、3年くらいチェックしていないからと、前に大腸がんを見つけてくれた町の病院に行き、内視鏡で見て貰ったら胃がんの疑いが強いと言われました。 近くにある心臓とガン専門の埼玉医大国際医療センターに12月暮に検査入院し、詳細に調べたところ、 胃がん、ステージ4、余命3ヵ月から6ヵ月、癌細胞が種がちらばる様にあり手術は不可能と言う診断でした。放射線治療も手術もできないので抗がん剤による治療をする事になりました。 1月には腹水が溜まり、ガンマーカーと言われるCEA値が正常は5以下に対し117あり状態は良くありませんでした。 3週間に一度2種の点滴と2週間の飲み薬の抗がん剤治療が1月13日から始まりました。 病院が選定してくれた抗がん剤が私の体に最適だったのか、2月には腹水が無くなり、CEA値が2月には半減の54.0になり、3月には4.6と正常値になりました。 がん細胞を視覚的に診るCT検査は4月と6月にしましたが、他への転移は無く、癌細胞も僅かずつ減少しているという結果でした。 抗がん剤治療を受けると一般的には副作用があり苦しむようですが、幸い私は脱毛、ひどい下痢、食欲減少などの副作用が無く、夏の暑さで疲労感はあったものの普通に近い生活をしています。コーラスも月2回の練習はやっています 私の胃がんは完治するという事は無いようで、抗がん剤治療を続けて、少なくも今の状態より悪くならないようにしようと思っています。 それにしても現在の医学はすごいですね。“免疫チェックポイント阻害薬”という最新の治療法で、苦しんで寝込むこともなく、私自身気持ち的には前向きで、ステージ4とか余命2ヵ月から6ヵ月なんて事は全く気にする事なく日々過ごしております。
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三五会と焼肉 投稿者: 木器 投稿日:2024年09月07日 (土) 04時29分 [返信] No.2070 |
噂になっていた「噂のケンミンショー」、柏雀さんはご覧になったようですが、小生、見逃し配信のTVerというのでやっと見ました。 イヤハヤ、すごいもんですね。都会の町の焼き肉店と違って、煙もうもうのこの煙がおいしいっていうんですから。
私にも経験があります。柏雀さんと同じく、子どものころの肉食の思い出はあまりはっきりしないのですが、成人するころから、姉の嫁ぎ先でしばしば地面座りのマトン焼肉の宴会に参加しました。
それがうまくてうまくて、おまけに酒も進むものですから、そのたびに酔っぱらっていろいろと恥ずかしい武勇伝も作ったものです。
そしてだいぶ後になり、東京から飯田に帰ったときの三五会といえば、ほぼ「くるきや」の焼肉に決まっていました。 懐かしいですねー、ここの主人・朝本君は残念ながら亡くなってしまいましたが、ここで食べた焼き肉の味も忘れられません。これぞ、まさに今騒がれている「飯田焼肉」の典型だったでしょう。
今回のテレビでは、いかに飯田という町が知られていないかの証でもありましたね。 なにせ知らなかった町、「陸の孤島」扱いですから。
でもまさにこの地べた座りやテーブルつなぎの大勢でのワイワイ焼肉は、飯田焼肉の特徴であることは確かでしょう。
そして、試食した番組の出演者がみな、お世辞とも思えない声で「おいしい!うまい!」を連発していたのもうれしかったですね。 コーメイさんが会った高橋克実さんなど、「この番組で初めてほんとうに感動した」と言っていました。
出前焼肉もやはり関心を集めていました。これはほんと便利。 今度飯田の皆さんと、わがログハウス新設の焼肉テーブルで、出前焼肉やりましょうよ。 私自身は、この9月21日からの連休、また孫家族といっしょに行ってやるつもりです。
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飯田の焼肉 投稿者: 柏雀 投稿日:2024年09月06日 (金) 21時55分 [返信] No.2069 |
見ましたよ~
飯田の焼肉は、少し前(と言っても今年になってからだったかな?)NHK(BS)の 「Cool Japan」でも取り上げていましたね。
その時も感じたのですが、十九のトシに故郷を離れた柏雀には、どこの飯田の話?といったところです。
飯田の在で生まれたワタクシは、小さいころ、肉を口にしたのは年に2~3回。我が家がことのほか貧しかったせいかも知れませんが。
学生寮の4年、社員寮の3年半の粗食に耐えて、新婚旅行で泊まったホテルで食べたミディアムのステーキに「中が焼けてないんじゃない?」と顔を見合わせたぐらいで、それほど肉には縁がなかった。
あれから半世紀以上。あの番組を見ていて思いましたね、天下泰平、つくづくいい世の中になったものだ、今の幸せが続きますようにと。
ま、食えるうちに食っておいたらいいんじゃないでしょうか。明日のことはわからないし、自由に食べられない時代がきっと来るから。
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誰か見たー? 投稿者: 木器 投稿日:2024年09月06日 (金) 08時38分 [返信] No.2068 |
昨日の日テレ、県民ショー、飯田の焼肉やったそうですね。 どなたか見ませんでしたか? 私はヤクルトが負けるところ、歯ぎしりして見てて、ふて寝してしまったので、まったく知りませんでした。
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涼しい救い 投稿者: 木器 投稿日:2024年09月05日 (木) 09時25分 [返信] No.2067 |
南彦右衛門さん、飯田地区の平均気温について詳細に興味ある投稿ありがとうございます。
まあ、どこもかしこも熱帯のような国になってきた今の日本で、飯田地区も例外ではないとはいえ、ただ一つの救いは、ご指摘のように、夜の気温について2018年の4日間を除いて、「熱帯夜」がない記録がまだ続いているということでしょう。
よその人に、「信州飯田といえば、夏涼しいんでしょうねー」と問われたとき、「うーん、まあそうですけど……」と言葉を濁さざるをえないのは、テレビなどで最高気温の地区に、ときどき熊谷などと並んで飯田が出るようになったからですが、夜に関しては、「昼はともかく夜はですねー、涼しんですよ。熱帯夜は今まで4日しかなかったんですから……」と言えます。
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飯田も暑かった 投稿者: 南彦右衛門 投稿日:2024年09月04日 (水) 15時02分 [返信] No.2066 |
気象庁は2日、今夏(6~8月)の全国の平均気温が平年より1・76度高く、1898年の統計開始以来最高だった2023年と並び、1位タイとなったと発表した。 飯田においては今夏(6~8月)の平均気温が平年(1991~2020年)の23.5℃より1.1℃高い24.6℃と1898年の統計開始以来最高だった2018年の24.7℃に次いで第2位であった。また、真夏日(最高気温が30度以上)が7月18日~8月26日まで40日間続いて最長連続日数を1995年の39日を更新した。 また、猛暑日(最高気温が35度以上)は8月末までに21日と2018年の22日に次いで2番目の記録であった。ただ、飯田で特筆すべきは熱帯夜(最低気温が25度以上)がないことである。飯田で熱帯夜を記録したのは統計開始以来2018年7月17日~20日の4日間だけであり、これ以外に熱帯夜の記録はなく、夜になると涼しくなり暑くて寝られないということはない。長野市や松本市では過去に何年も熱帯夜の記録があり、飯田は夜過ごしやすい特別な土地であろう。 気象庁のホームページにある地域ごとの気象データを見ていると様々な記録があり、楽しめる。気温の推移をみていると飯田でも確実に温暖化が進んでいることがわかる。子供のころは団扇で風を扇いで過ごしていたが、そのうち扇風機が家庭に入るようになってきた。1970年ごろ病院で調査したら、飯田で冷房機(エアコンではない)のある家は15%程度であったと記憶している。 年間統計が出たら今年の気候状況を確認してみたい。
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また偶然の発見 投稿者: 木器 投稿日:2024年09月04日 (水) 11時22分 [返信] No.2065 |
『藤沢周平句集』の中で、もう一つ見逃せない発見がありました。 それはやはりエッセイ「稀有の俳句世界」(「俳句」昭和六〇年四月号)の中で書かれていることですが、俳誌「海坂」を百合山羽公と並んで主宰していた相生垣瓜人(あいおいがきこじん)について書かれているところでした。
私はこの名に見覚えがありました。 以前、生意気にも60代後半で書いた『男の嗜み』という本の中で、酒の章の最初に、「酒ならばたしなむと言へ鱧(はも)の皮」(吉田汀史)という俳句を挙げたあと、さらに呑兵衛が好きそうな俳句として二つ挙げた句の一つが、この相生垣瓜人の作だったのです。その二つとは、
牡蠣(かき)よりも海鼠(なまこ)の黙(もだ)ぞ深からむ(相生垣瓜人) 白魚(しらうお)にあはせて燗(かん)をぬるうせよ(丸谷才一)
とくにこの瓜人の句は、いつも何の気なしにうまいうまいと食べている牡蠣や海鼠が、急に違って見えてきます。彼らのその何も言わない沈黙が妙に気高くさえ見えてきて、むしろわれわれ人間の饒舌が軽薄に感じられてきそうです。
などと思ってこの句を挙げたのですが、藤沢氏の選んだ瓜人の句の中にも、呑兵衛向きのものがありました。
荒海の秋刀魚を焼けば火も荒ぶ
まあ、藤沢氏はこれは佳句ではあるがほかの人でも作れる句の部類に入るのではないかと言い、むしろ次のような句に瓜人の独自性を認めています。
其処此処に冬が屯しはじめけり 葭切のいふところをも聴かむとす 油より濃き西日なり入り来る 隙間風その数条を熟知せり 聞き耳を立てしか秋の声ならず 梅雨といへど鈍き火花を散らすなり
以下、藤沢氏の言葉です。
「その稀有な俳句世界というものを、独断を承知でひとつかみに言うと、それは感性鋭い詩人であられる瓜人先生と自然との交歓の世界ということになるだろうか」
そして、「其処此処に冬が屯しはじめけり」を例にとり、 「瓜人先生の眼は窪地の枯草の上にひとかたまりに居据っている冬、葉の落ちつくした裸木の梢にやはりひとかたまりにとどまっている冬を凝然と見つめているのだが、見られている冬も物言わず、見ている先生も無言でいながら、そこには先生と自然とのひとをまじえない対話がかわされている様子が見えて来るのである」 と言います。
なるほど、ここにも沈黙が、無言の自然との対話が出てきます。「自然との交歓の世界」とは、牡蠣や海鼠の沈黙に心を通わせるような、まさに自然との深い物言わぬ対話なのだなあと感じ入った次第です。
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中日新聞記事 投稿者: ひらいわ 投稿日:2024年09月03日 (火) 15時15分 [返信] No.2064 |
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出典 投稿者: 木器 投稿日:2024年09月03日 (火) 07時38分 [返信] No.2063 |
いろいろ引用しながら記事を書く作業は、絶え間ない出典とのやりとりになります。 ボラさんが引用された藤沢周平の俳句の出典を調べていたら、『藤沢周平句集』の中のエッセイで見ることができたのですが、この本の初版(単行本)は1999年3月とありましたから、ボラさんがこの記事を書いた1980年よりだいぶ後になります。
ではボラさんは、何を見てこの句を引用したか。おそらくこの句の出てくるエッセイ「小説『一茶』の背景」の初出メディアで見られたのでしょう。 それは文庫の初出リストで見ると、雑誌「俳句」の昭和五三年三月号とありました。昭和五三年は1978年ですから、毎日グラフの2年まえとなり、この記事なら十分計算が合います。
こんなややこしいことをしなくても、ボラさんに聞いてしまえば一発でわかるのですが、今度、カラオケ会で会うのでその時までの楽しみに、ちょっと調べてみました。
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湯涌温泉 投稿者: コーメイ 投稿日:2024年09月02日 (月) 20時33分 [返信] No.2061 |
もしかして!と思って、書こうとしたのですが、やはりそうでしたか!3枚目の写真!
話は、最後の頁になりますが、「北陸の旅情 金沢」「金沢 百萬石温泉 ゆわく」「白雲楼ホテル」「百萬石文化園」「江戸村」等、広告と思しきコーナーにふと懐かしい響きを感じました。昨年秋、金沢の奥座敷、湯涌温泉を訪れたからです。 その湯涌温泉には、確か8つの宿泊施設がある筈ですか、「はて?」「白雲楼ホテル」ってあったかな?
資料によると、白雲楼ホテルは、石川県金沢市湯涌温泉にかつて存在した温泉ホテル。1932年(昭和7年)桜井兵五郎により開業した豪華なホテルで、70室の客室を持ち、かつては東洋一といわれていました。GHQが保養施設として接収したり、吉田茂元首相が来館したり、昭和天皇・皇后が食事をとるなど栄華を極めたが1998年(平成10年)に倒産したそうです。
金沢湯涌江戸村は、金沢市立の歴史博物館です。江戸期の建造物を移築保存し、歴史文化の理解を深め文化の向上をはかることを目的として設置されました。
金沢の奥座敷と称される湯涌温泉街に位置する同温泉街の旧白雲楼ホテルの隣にかつて存在した旧金沢江戸村(金沢市湯涌町)の歴史的建造物群を移築し、2010年9月に開設されました。 村内の歴史的建造物はすべて国の重要文化財、または石川県・金沢市の有形文化財に指定されています。
農家3棟、武士住宅1棟、商家2棟、宿場問屋1棟、武家門1棟、総計8棟の移築が完了し、その後、農家1棟、武士住宅1棟が移築され、現在総計10棟の文化財建造物があります。
昨秋、宿泊したのは、百楽荘で、能登半島地震の被害は免れたものの、姉妹施設の同名ホテルが、能登半島先端東側の九十九湾にもあり、こちらは、甚大な被害に遭ったそうです。
上の写真は、在りし日の「白雲楼ホテル」下は、「江戸村の建造物」
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藤沢周平の信濃エール 投稿者: 木器 投稿日:2024年09月02日 (月) 16時28分 [返信] No.2060 |
ボラさんの藤沢周平についての名文の冒頭に、俳句の引用があります。 「軒を出て犬寒月に照らされる」 というものですが、これは数少ない藤沢さんの俳句に関する一冊『藤沢周平句集』の中のエッセイ、「小説『一茶』の背景」の初めの部分に出てきていました。
文庫版を見ると、原文では「軒を出て犬 寒月に照らされる」と「犬」の後に空白を置いて、わかりやすくしています。 ボラさんの文章にあったように、秋櫻子の高弟であった百合山羽公がこの句を推奨してくれたようです。そして、その推奨の言葉の中に、川端茅舎の句「寒月の穴のごとくに黒き犬」が引用されていたそうで、それを見た藤沢氏は、多分、この寒月と犬の偶然の一致に驚かれたのでしょう、ますます現代俳句のとりこになったと、そのエッセイに書かれています。 もちろんこのエッセイは、長編小説『一茶』の執筆に至るいきさつなどを書いたものですが、私自身はこの小説を読んだのはだいぶ前のことで、よく覚えていません。 しかし随所に、藤沢氏が最初あまり好きでなかった一茶に、どんどん惹かれていく経緯が示されていて、大変興味深く感じました。
なかでも、一茶が生まれ故郷の信濃に帰ったその場所を取材に訪れたときの文章は、信州人として誇らしくうれしくて、ますます藤沢ファンになってしまいました。
「それにしても、信濃という言葉には、どうして人をいざなうような快いひびきがあるのだろうか。私は雪をかぶった信濃の山山を、車窓から飽きずに眺めながら、そう思った。そしてまったく突然に、一茶を書くことにしてよかったと思ったのである」
また、藤沢作品ではおなじみの「海坂藩」の「海坂」は、藤沢氏が俳句を投稿していた静岡の俳句誌の名まえが「海坂」だったことからきていることなども興味深く読みました。 「海辺に立って一望の海を眺めると、水平線はゆるやかな弧を描く。そのあるかなきかのゆるやかな傾斜弧を海坂と呼ぶと聞いた記憶がある。うつくしい言葉である」 と藤沢氏は書いています。 辞書によれば、「うなさか」は「海境」とも書き、海神の国と人の国とを隔てると信じられていた境界、海のさかい、海の果てを指すこともあるそうです。
ボラさんの文章がきっかけで、またまたいくつか貴重な発見ができたことに感謝します。
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何がテカった? 投稿者: 木器 投稿日:2024年09月02日 (月) 09時08分 [返信] No.2059 |
平岩さんが載せてくれた光岳(てかりだけ)は南アルプスのまさに南端、例の静岡県が長野県と山梨県の間に突き出したとんがった金魚の背びれの根元みたいなところ、長野県との境目にある山ですね。
有名な聖岳のさらに南で、よく話題になる国盗り縄引き合戦の兵越峠や、さらに南西に行くと青崩峠になるという、静岡・長野の入り混じった地域です。
だから、このとんがった出っ張りの静岡があるので、その先端あたりにわずか通過するリニア新幹線についても静岡側の言い分が出てきたわけですね。
山音痴の木器が、「てかり岳」という名に惹かれて、何がテカったのか知りたくてネット検索した結果、光岩という白い岩が静岡側から見えて、それが光って見えるらしいということと、ついでに位置関係を調べて改めて知ったことがらでした。
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3ページ目 投稿者: 木器 投稿日:2024年09月01日 (日) 14時10分 [返信] No.2058 |
コーメイさんも喜んでくれたボラさんの記事。 3ページ目の喫茶店の写真で、藤沢さんと向き合って背を見せているのが、若かりしころの我らがボラさんだそうです。当時、学芸部で藤沢さんの担当者だったとのこと。
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木器さん、有難う 投稿者: コーメイ 投稿日:2024年09月01日 (日) 10時14分 [返信] No.2057 |
木器さん、ぼらさんの力作、紹介していただき、感謝・感謝です。拝読させていただき、思うところ多々ありました。
若かりし頃の何人かの著名人へのインタビュー記事も読ませていただきましたが、努力して貯えた、豊富な知識、教養と、さり気ない暖かさ、思いやり、心くばり等が、自然と文面に感じられるのは、ほんと、ぼらさんならではのものと感じた次第です。
現役を退いた頃、「腹が立たなくなった。」と仰っていましたが、仕事一途がもたらす次元の深さも、持前のバランス感覚の良さ故、「腹立」は無縁と思っていましたが、ようやく区切りがついた安堵の心境変化だったのでしょうか。
藤沢さんの記事で、「午前中は新聞を読んだり、時には好きな推理小説をめくったり。そして散歩に出かける。」と書いておられますが、ぼらさんの日常も、「新聞、散歩、図書館通いの日常」と、先日お会いしたときに伺い、同世代を生きる者にとって、まさに、お手本に触れ、羨ましささえ感じたものでした。
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まだまだあるはず! 投稿者: 木器 投稿日:2024年08月31日 (土) 08時26分 [返信] No.2056 |
北海道から帰ったら、もう一つ超うれしい封書が届いていました。 ボラさんからのお手紙と雑誌記事のプリントでした。 8月7日に私が投降した「蝉時雨」にまつわる記事で、藤沢周平の名作『蝉しぐれ』に触れた部分がありましたが、それを読んで、ボラさんの働き盛りの毎日新聞記者時代に、藤沢さんご本人に会って書かれた、私なんかにとってはヨダレの出るように羨ましい記事を思い出して送ってくれたのでした。 もう、感激のあまり全ページを紹介させていただきます。 週刊「毎日グラフ」1980年11月9日号です。 ボラさんの文章の部分は、字が小さくて読めないかもしれないので、別にその部分だけ拡大版で添えておきます。 あるんですよ!こうした宝物がまだまだ! 出し惜しみしないで、折に触れ見せてください。 これはボラさんに限らないことで、多くの皆さんのこれまでの人生での足跡を示すもの、ぜひいろいろ見せていただければ嬉しいと思いませんか? 皆さま。         
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両君、ありがとう! 投稿者: 木器 投稿日:2024年08月30日 (金) 23時37分 [返信] No.2055 |
さきほど北海道から帰ったら、平岩さんからトップ写真が届いていました。 急ぎアップしました。毎度毎度、アリガトさんです。
柏雀さんも、疑問へのお答え、さっそくにアリガトさんです。 なるほど、これも生成AIに聞けばいいんだと、小生もBingのCopilotに聞いてみたら、こんな答えでした。似ているようで微妙に違う答えですが、どうでしょう。どちらが納得しやすいでしょう。
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「耳を澄ませて」と「耳を澄まして」はどちらも正しい表現ですが、使い方に若干の違いがあります。
1.耳を澄ませて: これは「澄む」という動詞に使役の助動詞「せる」が付いた形です。「澄ませる」は「澄む」を他動詞にしたもので、使役の意味を持ちます。したがって、「耳を澄ませて」は「耳を澄ますようにする」という意味になります。
2.耳を澄まして: こちらは「澄ます」という動詞の連用形に接続助詞「て」が付いた形です。「澄ます」は五段活用の動詞で、「耳を澄まして」は「注意深く聞く」という意味になります。 一般的には、「耳を澄まして」の方が自然でよく使われる表現です。ただし、どちらを使っても意味は通じますので、文脈や好みに応じて使い分けると良いでしょう。
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「耳を澄ませて」or「耳を澄まして」 投稿者: 柏雀 投稿日:2024年08月30日 (金) 21時46分 [返信] No.2054 |
たしかに、ワタクシも今まで深く考えもせず適当に使ってきました。文法的に分解して理解しようとしましたが、持ち合わせの知識が乏しくてギブアップ。
そこで、例のChatGPTさんに問い合わせたら、即座にこんな回答が届きました。
この回答が正しいのか正しくないのか、それも良く分からないのが、我ながらなんとも悲しいのですが・・・
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「耳を澄ませて」と「耳を澄まして」はどちらも文法的に正しい表現です。ただし、微妙なニュアンスや使用される文脈に違いがあります。
「耳を澄ませて」 **「澄ます」**の未然形「澄まさ」に、助動詞「せる」の連用形がついた形で、「澄まさせる」という意味合いを含みます。 より「意図的に耳を澄ませる」ニュアンスがあります。
「耳を澄まして」 **「澄ます」**の連用形で、「耳を澄ます」という動作がそのまま行われることを表します。 自然な流れで耳を澄ますイメージです。
どちらを使うかは文脈や意図によって変わりますが、一般的には「耳を澄まして」の方が日常的に多く使われています。
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