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今日の誕生花――12月17日 サクララン


今日の誕生花――12月18日 セージ



写真:「深まる冬景色・飯田」(平岩祥平・木器)

風越山に雪(12/15朝)




豊丘村~高森町山吹地籍の大橋を望む。


中央アルプス、空木岳方面を望む。(豊丘村・高台で撮影)


今季、一番の冷え込み:マイナス5度(12/06)・・・ネギ等は美味しくなる様です。


恵那山の雪景色(12/06)


天竜川付近の夕暮れ(2025年晩夏)



◆12~1月の壁紙カレンダー◆

(このカレンダーをPCのデスクトップ壁紙として使うには画面を右クリック、
「名前を付けて画像を保存」を選んでPCの任意の場所に保存し、
保存されたファイルをまた右クリックして「デスクトップの背景として設定」をクリックする)

♪「八十路のデュエット」――ル・クプル・コーノ
♪クシコスポスト、♪トルコマーチ、♪荒城の月
♪「八十路のデュエット」2――ル・クプル・コーノ
♪ムーン・リバー、♪埴生の宿、♪旅愁
(上の下線部分をクリックしてください)

◆「日本最大の谷」=2大アルプスに挟まれた「伊那谷」◆

(写真上「中央アルプス」:柏雀。写真下「南アルプス」中「伊那谷・天竜峡」:平岩祥平)

熊伏山上空5000mから見た伊那谷のカシミール画像(柏雀)





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還暦記念下部温泉狂宴アルバム(一人一人の41年前タイムスリップ写真付き)
◆金森山便りのブログ(terra)


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 北 一明  投稿者:おたぐり   投稿日:2024年05月12日 (日) 10時41分 [返信] No.1845

昨年10月に「北一明記念館」が開館されたとのニュ-スを見ました。注目は場所です。飯田市江戸町で、実家の近くです。それに飯田高校の先輩のようです。名簿の 高5 に載っていました。
5月8日に飯田に帰った折、どんなところか様子を見てきました。菱田春草生誕地公園の近くです。
予約しておかないと中に入れないようです。そのうち機会があればと思っています。


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 反対側の富士山  投稿者:木器  投稿日:2024年05月11日 (土) 23時59分 [返信] No.1844

 東海道新幹線は富士山の南側を走り、中央高速道は富士山の北側を走りますよね。
 ということは、いずれも東京に向かうとき、新幹線の窓から見ると富士山は進行方向の左側に見え、東京に向かう中央道のバスからは富士山は右側に見えるはずです。
 ではその反対側の窓からは、当然、富士山は見えっこない?

 ま、この問題に関してはすでに新幹線では東京に向かう静岡県の安倍川駅近くで、線路が大きく左カーブしたとき、右の窓から富士山が見えることが知られています。

 では、東京方面に向かう中央道のバスの左の窓から富士山が見えることは?
 これは今回実見してみましたが、案外たくさんあります。長坂インターを過ぎたあたりからしばらくの間、かなりの頻度で富士山が左側の窓から見られることがわかりました。
 あまりはっきり撮れませんでしたが、一枚だけその証拠写真です。

 こんなのも、柏雀さんのカシミールの守備範囲でしょうか?
 地図で富士山の位置と線路や道路のカーブを確かめればわかることでしょうが……。

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 前夜祭  投稿者:木器  投稿日:2024年05月11日 (土) 23時24分 [返信] No.1843

 じつは今回の飯田行きは、会の前の日から何人か飯田に泊まって前夜祭をやろうという声もありました(なんて、ほんとは木器が一人で勝手に思っていただけですが……)。
 実際には参加者は、おたぐりさんと柏雀さんの2人、小生を入れて3人の小編成でした。

 どうせなら、まえに合唱合宿などの時に使ったように、わがログハウスにみんなで泊まってもらい、修学旅行よろしく飲み明かしましょう、とまではいかないまでも、一杯やりながら楽しく語り合いましょうというわけでした。

 最初は、飯田に着いてから寝るまでに時間があるから、飯田のカラオケにでも行くかと話していたのですが、平岩さんに話したら、そんな東京でも行けるカラオケなんかに行くより、もっといいところに案内してやるで……というわけで、すっかり平岩案でお世話になってしまいました。

 つまり、今回泊まるご両人は天竜峡大橋の「そらさんぽ」をしてないだろう、そしてどうせなら温泉にも浸かっていったらどう? というわけです。
 写真は、そのときの天竜峡の龍角峯を背景の一枚と、泊まったログハウス。ログハウスに並んで増設した離れ(白く見えるところ)のほうが冷暖房が効きやすいので、お客さんにはそちらに泊まっていただいています。今回もお二人にそちらに泊まっていただきました。

 お二人と平岩さんのお蔭で、まえの日から楽しく充実したひとときが過ごせましたこと、心から感謝いたします。ありがとうございました。またぜひこんな機会を作ってもらえるとうれしいですね。

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 滝沢具幸展に寄せて  投稿者:木器  投稿日:2024年05月11日 (土) 22時27分 [返信] No.1842

 飯田35会の今回の集まりにとって、特筆すべきことはやはり「慰労会」の対象になった、滝沢具幸画伯の18年間にわたる飯田美術博物館館長としてのご尽力でしょう。

 この間、東京から飯田への往来は何と合計500回に及んだと聞き、驚嘆しました。
 小生などはかつて「華齢なる音楽祭」の実行委員長を仰せつかって、年に何度か行き来しましたが、その回数は2013年から7回の開催を通じて30回を超えないと思います。

 滝沢画伯は、ご自分の芸術家としての創作活動の一方で、こうして故郷の文化の向上のため粉骨してくれたわけですから、本当に頭が下がります。
 しかも小生などのように、気楽に高速バスで行き来したのではなく、運ばれる作品も大型のものが多かったので、それを積み込める自家用車を使っての行き来だったようです。

 さらに胸を打たれるのは、このたびの何回かの挨拶や面談でも、くり返しておられたように、自分の画業のもとになったのは、この年になって改めて故郷の自然や人情であり、とくに飯田高校という場で培われたものが大きいと感じておられるということです。

 こうしたもろもろを総括する意味でも、展覧会の入り口に掲げられた同館の「ごあいさつ」を改めて味読したいと思います。

「ごあいさつ(原文敬称略ママ)

 飯田市出身の日本画家で、東京藝術大学や武蔵野美術大学で教鞭をとられた滝沢具幸が、令和6年3月31日をもって飯田市美術博物館館長を退任します。平成18年(2006)4月以来、18年の長きにわたって、美術博物館の学術分野を主体にご助言を賜り、ご指導をいただきました。美術分野はもちろんのこと、幅広い視野をお持ちであり、文化や自然も関心が深く、美術・人文・自然・プラネタリウムが共存する当館の館長にふさわしいお人柄でした。

 退官記念展では、綿半野原コレクションなど当館が所蔵する滝沢具幸作品30点に加え、このほど新寄贈となった<地のものたち>を含め一堂に会し、滝沢具幸の画業をあらためて振り返ります。

 滝沢具幸は、自然界にある混沌とした情景の中に生命や大地の力を見出し、土や森、原野などを題材に独自の日本画の造形を生み出してきました。現代絵画のアンフォルメルからの刺激を受けて、日本画に新風を吹き込む一方で、古典絵画の技法や素材の探求にも力を注ぎ、飽くことなき表現への旅はつきることがありません。

 当館の館長は退かれることになりましたが、生まれ故郷は造形の原点であり、今後も地域との新たな関りによって、創造の世界は深まっていくことでしょう。これまでの感謝を込めて、滝沢具幸の芸術を振り返りたいと思います。
                       令和6年3月
                      飯田市美術博物館」

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 飯田35会・館長慰労会  投稿者:木器  投稿日:2024年05月11日 (土) 15時58分 [返信] No.1841

(東京35会幹事・伊原信夫、同行文責・福島茂喜、写真協力:飯田35会・平岩祥平)

 飯田から帰ったまま、雑事に紛れご報告が遅れましたが、5月9日午前11時半より、飯田35会の例会と滝沢具幸前飯田美術博物館長の退任慰労会が、飯田市今宮の料亭「半平」で行われました。
 東京からは5人(伊原信夫、嶋岡洋平、下澤徹、滝沢具幸、福島茂喜)が参加しましたので、その様子をご報告します。

 会に先立って10時より、飯田美博で開催中の滝沢具幸退任記念展覧会のご本人解説による鑑賞会が行われ、ほぼ同館貸し切り状態に近い恵まれた鑑賞条件の中での、充実した美術鑑賞の時間が持たれました。

 半平に移っての飯田35会例会と慰労会は、当番地区である鼎地区の幹事さんの行き届いた運営でみごとな会が進行しました。

 冒頭、このところさらに増えている物故者会員を念頭に、過去を含むすべての物故者会員を偲んでそのご冥福を祈る黙祷が行われました。
 1分間の深い静寂の中で、参加者一人ひとりの脳裏に、懐かしい友の面影がいくつも去来したことでしょう。

 生き届いた議事の進行は、そのまま配布された「飯田35会令和6年例会次第」に記されていますので、その全文をスキャンして掲載させていただきます。併せて参加者の全員が載った「出席者名簿」もご覧いただければ幸いです。

 議事の中では「会員に不幸があったときの対応」など、じつに切実に身につまされる問題であり、東京35会でもつとに課題になっていたことでしたので、大いに参考にさせていただけると感じました。

 宴たけなわに、参加者全員が順番に近況報告を行い、それぞれが元気溢れる、あるいは病苦との闘いを乗り越えた味のあるトークを披露して、場を盛り上げてくれました。
 お開き直前には、しばらくぶりの高歌放吟、校歌の大合唱をした後、お別れしてきました。 

 飯田の皆さまには、すっかりお世話になりました。素晴らしい会をありがとうございました。残された日々の少なさを思うと、できるだけ多くのこうした機会が持てるとうれしいと思います。
 どうぞ今後ともよろしくお願い申し上げます。










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 ついでながら  投稿者:柏雀  投稿日:2024年05月11日 (土) 10時25分 [返信] No.1839

 昨日、新宿行きのバスに乗る前に、近くの展望台から伊那谷を眺めて見ました。

 実にいい天気でした。

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 極楽峠  投稿者:柏雀  投稿日:2024年05月11日 (土) 10時00分 [返信] No.1837

 9日の滝沢具幸前飯田美博館長退任慰労懇親会の席で、同画伯が下條村極楽峠からの眺望を絶賛されていました。

 ネット上にも色々写真がのっていますが、確かに素晴らしい景色が楽しめるようです。

 例の「カシミール」に画像を作らせてみました。

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 弁天橋周辺  投稿者: ひらいわ  投稿日:2024年05月08日 (水) 10時24分 [返信] No.1836

5/8、中日新聞記事


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 日本のチロル  投稿者: ひらいわ  投稿日:2024年05月01日 (水) 09時06分 [返信] No.1835

5/1 中日新聞記事。


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 ネモフィラ  投稿者:おたぐり   投稿日:2024年04月30日 (火) 20時02分 [返信] No.1834

 近所の昭和記念公園では 今年はたくさんのネモフィラが見られます
 ネモフィラといえば「ひたちなか海浜公園」ですが、すこしでも対抗しようと努力しているようです
 近くの方はぜひどうぞ

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 中村  投稿者: 木器  投稿日:2024年04月30日 (火) 09時24分 [返信] No.1833

 Retsu さん、失礼しました。お母さまの出身地は、伊賀良村中村とのこと。
 この地名も懐かしいですね。小中学校のころは、遠足でもなんでもあちこち行くのはもっぱら歩きでしたから、この中村というところも、川路の学校からはかなり上り坂をあがって遠いところと感じていました。

 今では川路方面から昼神や木曽方面に行くとき、車であっという間に中村の角を曲がってしまいます。でも、そのたびにふと、あゝここがあの中村だーと思い出していました。
 ことさらに懐かしい地名・人名が気にかかるのも、齢を重ねたせいでしょうか。

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 木器さん  投稿者:Retsu  投稿日:2024年04月29日 (月) 17時29分 [返信] No.1832

 母の出身地は、伊賀良村中村です。
 屋号は、「稲葉」と言い、姓は、松江です。
 川路の松尾家には、母の兄(二男)が、松尾家に養子に入りました。
 恒久は、松尾家の三男でしたが、母親の兄(こちらも同じ松尾)に子供が出来なかったので、生まれて直ぐに、養子に貰われました。
 私には、兄がいなかった事と、恒久には、弟が居なかったので、小さい頃から仲良くしていました。
 今も、時々連絡を取り合っています。

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 川路の縁  投稿者: 木器  投稿日:2024年04月29日 (月) 13時19分 [返信] No.1831

 そうでしたね。たしか、Retsu さんは「川路」にご縁がおありでしたよね。お母上の出身が川路でしたか。
 私の家は川路の端っこだったため、本籍には川路の名が残っているものの、36災害後の区画整理の後は飯田市「嶋」となって、住所から川路の名が消えてしまいました。

 もともと我が家の飯田線利用駅は川路より時又が近かったので、生粋の川路人とはちょっと違っていたかもしれません。
 小学校低学年のときは、家から学校が遠くて大変でした。それもあって道草を食うことも多く、喧嘩した1歳下の友だちに遠くから石を投げて、まさか当たるはずはないと思っていたのが、野球で鍛えたコントロールが効きすぎたのか、相手の頭にしたたかに当たってしまいました。

 彼は、その衝撃に悶絶して田んぼに転げ落ちてしまいました。私は驚いて駆け寄り、近くの知り合いに連れ込んで、けがの手当てをしてもらいました。
 彼の頭の骨が丈夫だったせいか、大けがにはなりまりませんでしたが、まさか当たると思わなんだもんで、と平謝りに謝るしかありませんでした。

 その彼は、野球の試合では名キャッチャー、いつも弟とともに三角ベース野球には欠かせない遊び仲間でした。
 その後、進路も違って、会うこともなくなってしまいましたが、長じて立派に起業し、素晴らしい成功を収めていると聞きました。
 
 Retsu さんとの共通の知り合いである村田実さんとは、お電話や手紙での再会を果たしましたが、この川路小中学校で1級下の彼も、死ぬまでには一度会いたいなーと思っている相手の一人です。

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 鼎に在る墓の、墓仕舞い  投稿者:Retsu  投稿日:2024年04月28日 (日) 17時59分 [返信] No.1830

 鼎に在る墓の、墓仕舞いをしなくてはいけないと、思っていますが、中々踏ん切りが、付きません。
 昭和34年、両親は飯田での商売(製油業)に見切り付けて、戦前の仕事に復帰(日本刺繡)する為に、東京へ転居しました。
 私と妹は、吉川(英)君の姉さんが、事務員のまま残ってくれ、生活の面倒を見てくれていました。
 その後、私は卒業して就職、妹は、川路の母方の伯父の家から風越へ通学していました。
 昭和39年、父親は新宿区の寺に墓地を求め、鼎の墓に埋葬されていた祖父の御骨を、この寺に移しました。
 その後、祖母、父、母と、この寺に埋葬されています。
 鼎の墓は、私の四代前以前の御先祖なので、もう墓仕舞いしても許されると思います。
 今年は、何とかして墓仕舞いをしたいと思っています

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 我が家のフジ  投稿者: 木器  投稿日:2024年04月28日 (日) 11時16分 [返信] No.1829

 こうのさんの野球は、まるで実況放送みたいに臨場感があります。
 それに飯田弁で現地の空気がそのまま伝わってくるようです。
 ほんとあのころはお互いワカかった、元気だった、楽しかったー、思い出すと絶望的に懐かしくて目頭があっちっちです。

 写真は、ひらいわさんが撮って送ってくれた飯田市嶋(旧川路1区)のわがログハウスのフジです。ありがとさんです!

 ログハウスができたとき、近くの吉川さんや牧内さんが寄り合って、植えてくれた生垣のレッドロビンもみごとに育ってくれました。今度5月8~10日に帰ったとき、剪定できるかどうかですが……。


IMG_9252 (2)

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 もさ  投稿者:こうの  投稿日:2024年04月27日 (土) 15時36分 [返信] No.1828

猛者、もさ、野球猛者、
市田中学、野球もさ「北原貞良」「ていりょう」ナッ
よたっ小僧の野球馬鹿時代、
天竜はさんで、竜西あいつら、めっけると、だれかれ、かまわんで、石ッころ、ほうり投げあったっけなぁ-
俺ら、竜東、神稲中は野球大会支会で優勝したんだにィ
全校生徒がならんで、校庭の石拾い
はだしで野球、はだしですべりこんだにィ-
富田のデカ物。猛ライナ-、、ナイスキャッチ、
くす(原)応援団長、
"いいぞ、いいぞ、こうの"

女子と遠征、野球とバレ-(佳代ちゃ、松尾中キャプテン、山吹中烈子さん、強烈エ-ススパイカ-だったと)

そうそう高校、クラスマッチ
ていりょう三塁、おれショ-ト
勝った!優勝だ!
カマキリ、とんで、飛び上がったッ

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 当時の野球試合  投稿者: 木器  投稿日:2024年04月24日 (水) 15時46分 [返信] No.1827

 私の育った川路村は全部で8区に分かれていて、あらゆる行事がこの区単位で行われていました。

 野球の道具なども区長の家に保管されていて、大人用でしたが少年たちにも貸し出してくれました。そこに細長いファーストミットがあったのが嬉しくて、悪ガキたちが競って使いたがったものです。

 全村運動会なども区ごとの対抗戦でしたし、少年野球も区対抗でした。
 しかし私の所属した村はずれの1区は人口が少なくて、私が中1のとき小中学生の野球チームに上級生の2,3年生がいなくて、1年の私が仕方なくピッチャーで4番バッターをつとめました。

 ほかの区は、3年生のでっかいあんちゃたちが投げて打ってくるので、1年生のF少年が一生懸命、変化球を習って投げ込んでも、ポンポン打たれてしまいます。

 姉が通っていた竜丘のカルニュー光学という会社に野球部があり、そこのキャプテンだった青年が姉に気があったのを利用して、ピッチングの指導を受けたり、試合見学をさせてもらったりもしました。

 そんな努力も、やはり学年差には勝てず、1区のチームは弱小でした。
 メチャ負けですごすごと帰った記憶がありますが、その後、やはり各区のチーム編成が難しかったのか、少年野球大会はやらなくなってしまったようです。

 灰田勝彦のヨーデルを思い出しながら、やはり「野球小僧」ともう一つ好きだった「新雪」を口ずさんでいます。
 こうのさんの思い出の北原くんのことも、私はまったくおぼえていませんが、幻のような美しい情景です。

 こうのさんが作詩してくれた「野球小僧・川路版」も歌ってみました。なかなかうまくはまって気に入りました。あんがとさんです。

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 ばしょどり そうだっつらなぁ-  投稿者:こうの  投稿日:2024年04月24日 (水) 11時01分 [返信] No.1826

♪野球こぞうは 火の玉よ
朝は早よから 飛んでって
場所取りグランド 俺一番
バット1本 タマ二つ
つぎはぎグローブ 宝物
お-イ おめぇたち
見とれ 土手越え ホ-ムラン♪

はいだ かつひこさんの
よ-デル、
やたら、目をつりあげとる

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 あっしも好きだにー  投稿者: 木器  投稿日:2024年04月23日 (火) 15時42分 [返信] No.1825

 こうのさん、またまたよくぞ言ってくれたなあ。聞きましたフォレスタの「野球小僧」、あっしも好きでよくカラオケで歌いました。

 前奏の「ダンダンダンダン、ダンダンダンダン」が始まるともう、だんだんワクワクしてきて、だんだん気分が高まり、「♪やっきゅう小僧に会ったかい~」っていっちゃんだよね。

 小中学校のころはほんと野球小僧で、夏休みなんか毎朝暗いうちに学校のグランドで練習の場所取りをしました。きれいなアーチの「虹のホームラン」で売った「青バット」の大下弘の大ファンでした。
 灰田勝彦自身が大の野球好きで、まさに野球小僧だったんですよねー。

 これともひとつ唱歌で「緑のそよ風」の作曲者・草川信も野球好きだったようですね。それを思って作詞家の清水かつらが、3番に野球シーンを入れたのだとか。

 ♪みどりのそよ風 いい日だね
  ボールがぽんぽん ストライク
  打たせりゃ二塁の すべり込み
  セーフだおでこの 汗をふく

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 こころの歌に北原貞了  投稿者:こうの  投稿日:2024年04月23日 (火) 06時14分 [返信] No.1824

♪野球こぞうに逢ったかい ♪じゃぁねくて♪野球こぞうだらけだにぃ♪の、
あん時が、声が、ここんとこに、、
てめぇがやめたら、負けちゃうわッ!
めぇショ-と大向こうからあいの手かけられた、おらぁ-。
ぱったり、ボ-ルに当たらん。
飯高ソフト、クラスマッチなッ
バッタ-、代えてくんなッ
サ-ド貞了、どすのききすぎ、こわだかに吠えられた
居らんけど、野球こぞうの、たんび
優勝した時の北原がおる
フオレスタが灰田勝彦を歌ってくれたんたんだにィ~

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