先日のこと、天気はいいしポカポカ暖かいし、、、ぼう~とした頭に、むかしどこかで聞きかじった詩の断片が浮かんできました。
「秋の日の ヴィオロンの ためいきの・・・・」というあれ。
さっそく「青空文庫」で探したら、上田敏の訳詩集「海潮音」に「落葉」という題で載っていました。それがこれ。
落葉
秋の日の
ヴィオロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し。
鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。
げにわれは
うらぶれて
ここかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。
ところが、ふと妙なことが気になってしまったのです。
この訳詩は、原詩のリズムを尊重して基本的に一行5音、各段6行となっているようなんですが、2段目の1行目「鐘のおとに」だけが字余りの6音なんですね。
「鐘のね(音)に」とすれば5音になるのに、あえて「鐘のおとに」としたのはなぜ?
重箱の隅が気になって頭がもやもやと。
その後、考えたのですが、
① 辞書にも「鐘のね(音)」という言葉は確かにある。
② しかし、一方で「おと(音)」が大きな音響を指すのに対し、「ね(音)」は比較的小さな、人の感情に訴えるような音声をいう、ともある。
③ ここでいう「鐘」は、時を告げる教会の鐘のこと。
④ 教会の鐘は大きな音を響かせるのが普通だから「おと」であって「ね」ではおかしい。
⑤ したがって、字余りになっても「鐘のおとに」と訳さざるを得なかった。
というところに行きつきました。
やっぱり、上田敏は翻訳で安易な妥協などしなかった、昔の人は偉かったと改めて感じています。
それにしても、こんなことが気になるなんて、柏雀もひまなもんです(つくづく)。
なお、「鐘の音」とはこのようなものかと思います。やはり「ね」とは言えませんね。
https://www.youtube.com/watch...