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今日の誕生花――12月23日 プラタナス


今日の誕生花――12月22日 ヒャクニチソウ



写真:「帚木とすばる」(平岩祥平)

この12月7日、NHK長野「撮るしんSP2024――古木と星々写真の共演・
千年の時をこえた挑戦」という、興味深い番組が放映されました。

「もっと信州を知ろう。写真を撮ろう」という意味を込めて「知るしん」「撮るしん」
を展開し、選ばれた写真で来年のカレンダーを作ります。

その一環として今回の放映では、大河ドラマの源氏物語ゆかりの「帚木」と、
枕草子に出てくる「星はすばる」のすばるを共演させた写真への挑戦です。

阿智村園原にある帚木(ははきぎ)は、平安時代からの言い伝えで、
長い年月、箒(ほうき)のような樹形が見られたヒノキの木ですが、
昭和33年の台風で主要な樹形を失い、今は7メートルほどの古木の横に、
数メートルの若木が育っています。
(ほうきぎ=箒木はアカザ科のホウキグサ・コキアのこと)

この、かつての源氏物語・帚木を偲ばせる樹木の間から、
枕草子で称えられたすばるを撮った見事な写真(一番上)があります。
これを撮った写真家は、「紫式部と清少納言という組み合わせを考えたい」と、
「千年の時をこえた挑戦」を試みたわけです。

帚木の上空に輝くスバル・・・以前、写真家が撮影したもの。
*現在は、付近の木が大きくなり写真には写らないようです。


帚木


帚木・NO2




帚木の根本




星はスバル




帚木の近くにある神坂峠(東山道)あたりから見たすばる。


ちなみに枕草子のその部分の原文は次のようになっています。
「星は、すばる。彦星。夕づつ。よばひ星、すこしをかし。尾だになからましかば、まいて」
(星といえば、すばる。彦星。宵の明星。流れ星は、すこし趣がある。尻尾がなければなおいいのに)

すばるとは、おうし座のプレアデス星団のこと。オリオン座の左肩ペテルギウスから
おうし座のアルデバランという、いずれも赤っぽく目立つ2つの明るい星を結んだ、
その長さの半分ほど先に、キラキラと集まった6つほどの星が見えます。

彦星はわし座のアルタイル、宵の明星は金星です。
(彦星と天の川をはさむ織姫は、彦星から見てちょうど金星の反対側の位置)


ちょうど今の時期、12月中はこの金星、彦星、すばるが見えやすい時期だそうです。
とくに中旬には、それらをいっぺんに見ることができそうだといいます。

暗くなってすぐの18時ごろには南西の空に金星、西の空には彦星(アルタイル)
を見ることができ、振り返った東の空には、すでにプレアデス星団(すばる)が昇っています。

しかも、13~15日は「ふたご座流星群」の見ごろでもあるので、
3つに加えて流れ星(よばひ星)を見るチャンスもあるというわけです。
ただしこのころは月が満月に近くなり、しかも月の通り道がこのあたりなので、
かなり見えにくい恐れはあるということです。

しかし願ってもない源氏物語と枕草子の世界をつなぐ空の劇場を、
寒さをこらえて楽しむのもいいのではないでしょうか。



◆12月の壁紙カレンダー◆
 『美瑛町(旧)マイルドセブンの丘』
撮影は北海道の写真家 大柳雅資さん、提供は通販サイト「北国からの贈り物」です。
とある時期にだけ見られる光景。太陽の位置と白銀の雪原によって影が描き出されます。
※ここは私有地で地主の方の好意により見ることができます。
時折、私有地であることを理解の上、皆さんで楽しませて頂きましょう。

(PCのデスクトップ壁紙として使うには画面を右クリック、
「名前を付けて画像を保存」を選んで任意の場所に保存し、
保存されたファイルをまた右クリックして「デスクトップの背景として設定」をクリックする)

♪「八十路のデュエット」――ル・クプル・コーノ
♪クシコスポスト、♪トルコマーチ、♪荒城の月
♪「八十路のデュエット」2――ル・クプル・コーノ
♪ムーン・リバー、♪埴生の宿、♪旅愁
(上の下線部分をクリックしてください)

◆「日本最大の谷」=2大アルプスに挟まれた「伊那谷」◆

(写真上「中央アルプス」:柏雀。写真下「南アルプス」中「伊那谷・天竜峡」:平岩祥平)

飯田高校同窓会ホームページ
還暦記念下部温泉狂宴アルバム(一人一人の41年前タイムスリップ写真付き)
◆金森山便りのブログ(terra)


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No.2343 農業立国の知恵ー5 投稿者:木器   投稿日:2024年12月21日 (土) 14時05分 [返信]

 この本では、このほか小泉先生の専門である発酵食品を中心に、これからの農業立国について数多くの提言をされ、我々の日々の食生活へのアドバイスもされています。

 最後に一つ、この本で非常に印象に残るお話がありました。

 それは、別の投稿でもちょっと触れたことですが、「農業を一生懸命やれば戦争がなくなる」という考え方です。
 これは小泉先生が、その言葉を言っているわけではないのですが、私が勝手に先生の父親のエピソードから感じたことなのです。

 そのエピソードを要約しながら引用すると……。

 太平洋戦争のとき、小泉先生の父親は軍人でした。
 会津若松に、両角部隊という有名な戦闘隊があったのですが、父親はそこの偉い人だったそうです。

 家は酒屋でしたが、父親は学校を出て酒屋に戻ってきた途端に、赤紙が来て兵隊に行ってしまいました。
 そしてすぐに偉くなり、部下を率いて中国の雲南省から国境を越えて、ビルマ(今のミャンマー)に入りました。そこで日本の母に手紙を書き、米と大豆を戦地に一俵ずつ送らせました。

 父親は食いしん坊だったので、その米で苗を作り、ミャンマーの山の中で部下と田んぼで稲を育てます。畦道に大豆を蒔いて……。
 すると田んぼにはご飯のもと、畦道には味噌汁のもとができます。
 つまり部下たちに戦争をさせないで、米を作り大豆を作り、ご飯とみそ汁で命をつなぎながら、ミャンマーの農家に、米がいっぱいとれる方法を教えたといいます。

 父親に率いられたこの部隊は、戦争に行ったのか、農業をするために行ったのかわからないようなことをやっていたというのですから、見つかったら軍法会議ものだったろうと言われます。
 このことは、戦後、帰還したこの部隊の兵隊が書いた作文集の中に出ています。

「小泉隊長はものすごい人だった。戦争に行ったのに戦わないで農業をさせてくれた。おかげで我々は飢えなかったし、戦争の恐怖を知らなかった。ミャンマーの人たちに日本式の農業も教えることができた」

 先生に物心がつく、小学校の2年生くらいのとき、父が「おまえ日本人になりきって生きろよ。日本人になりきって育てよ」と言うのです。
「日本人になりきって生きろ」と言われても、何をすればいいのかよく分からなかった小泉少年は、食べることが好きだから、「おれは日本食以外は食べない」と言って、ずっと和食を食べてきたそうです。

 あの戦争中に本当にこんなことがありえたのか、「おとぎ話」のようにも思えますが、もしかしたらここには意外な真実が、それも世界中の知恵者も忘れていた人間の生命維持の原則に基づく、大いなる知恵が秘められているのではないかと思ったのです。

 つまり、人類はもっと農業に一生懸命になれば、生き残りをかけた紛争や戦争を止められるのではないか。
 平和な農業に打ち込んで生きる道を探せば、戦争などやらずに済む、いや戦争などやっていられなくなる、そんな「おとぎ話」のようなことは、期待しても無駄なのでしょうか。



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