No.2288 藤沢作品の魅力、光と音と匂い 投稿者: 木器 投稿日:2024年12月02日 (月) 17時47分 [ 返信] |
藤沢周平『蝉しぐれ』はファンが多いので、すみずみまで知っている人が少なくないと思います。その同好の人同士で、なぜ『蝉しぐれ』が好きなのか、なぜ「蝉しぐれ」という題名が付いたのかなどを語り合うこともあるでしょう。 その雰囲気で、もしよろしかったら、ついでにお付き合いください。 以下も、拙著からの抜粋です。
*藤沢作品の中の「光」と「音」と「匂い」
作者の育った環境のせいだろうか。藤沢作品の自然描写が、じつに細やかでみずみずしい感性に彩られていることもよく指摘される。
登場人物たちの行動や心情に感情移入して読み進むそのところどころに、彼らが立ち現れる背景の山や川や野や、そして木々、草花、そして鳥や虫が、うっとりするほど魅力的に描かれている。 そして、しばし主人公たちの動向を忘れて、その自然描写に没入している自分を発見する。
私はそれを絵画的な美しさだけでない、「光」と「音」と「匂い」など、五感すべてに働きかける「美」のもたらすものだと思っている。しかも、それが物語と遊離した別世界ではなく、作品の全体を支える重要なモチーフになっていることも少なくない。
早い話、名作『蝉しぐれ』がその典型である。 冒頭数ページ目、海坂藩普請組・牧助左衛門の養子・文四郎は、ある夏の早朝、組屋敷の裏を流れる小川で顔を洗う。
――いちめんの青い田圃は早朝の陽射しをうけて赤らんでいるが、はるか遠くの青黒い村落の森と接するあたりには、まだ夜の名残の霧が残っていた。じっと動かない霧も、朝の光をうけてかすかに赤らんで見える。そしてこの早い時刻に、もう田圃を見回っている人間がいた。黒い人影は膝の上あたりまで稲に埋もれながら、ゆっくり遠ざかって行く。 頭上の欅の葉かげあたりでにいにい蝉が鳴いている。快さに文四郎は、ほんの束の間放心していたようだった。そして突然の悲鳴にその放心を破られた。――
映画のカメラで言えば、背景をかなたの田圃や森という遠景から、しだいにすこし離れた田圃を見回る人影という中景に近づけたあと、さらに頭上の欅で鳴く蝉という近景に関心を引き寄せ、つぎに束の間放心する文四郎をクローズアップする。
読者はおそらく、遠い映像から近い映像へと視覚的に情景を読み取りながら、しだいにその映像に蝉の声というBGMがはいってくるのを聞く。しかし放心したような文四郎はおそらくあらゆる感覚に無防備だっただろう。そこに突然一声の悲鳴。
頭上に、にいにい蝉の声。そこで蛇にかまれて悲鳴を発したその主こそ、文四郎と運命的な関係を持つことになる隣家の娘「ふく」だった。
長い曲折を経て最後の場面。藩主の側室、お福さまとなった「ふく」が、藩主の死後出家するまえに、一度だけかつての文四郎、父の名を継いだ助左衛門に会うために海辺の宿にお忍びでやって来る。
束の間の逢瀬の後、文四郎はかすかな悔恨に似た気持ちとともに、「会って、今日の記憶が残ることになったのをしあわせと思わねばなるまい」と思いながら馬を走らせる。 そこに最後の描写。
――顔を上げると、さっきは気づかなかった黒松林の蝉しぐれが、耳を聾するばかりに助左衛門をつつんで来た。蝉の声は、子供のころに住んだ矢場町や町のはずれの雑木林を思い出させた。助左衛門は林の中をゆっくりと馬をすすめ、砂丘の出口に来たところで、一度馬をとめた。前方に、時刻が移っても少しも衰えない日射しと灼ける野が見えた。助左衛門は笠の紐をきつく結び直した。 馬腹を蹴って、助左衛門は熱い光の中に走り出た。――
冒頭のにいにい蝉の声と「ふく」の悲鳴は、そのあと「ふく」の身の上に起こる数奇な運命と、その運命を清算するような蝉しぐれの中での最後の逢瀬を象徴しているような気がしてならない。
少なくとも作者は、この作品に『蝉しぐれ』という題名を付けているのだから、この場面での蝉しぐれが重要でないはずはない。
冒頭の朝の光、最後の野の光という視覚描写に重ねた、二人の心のざわめき、高まりを表わすような蝉の声という聴覚描写が、じつに効果的に生かされていると感服する。
あと上げればきりがないが、いくつか惚れ惚れした自然描写をあげておきたい。
夕雲流の女流剣士の道を歩みながらも、ほのかに思いを寄せる男がいた以登が語る「お物語」として書かれた『花のあと』で、娘時代のお花見の場面。
――水面にかぶさるようにのびているたっぷりした花に、傾いた日射しがさしかけている。その花を、水面にくだけちる反射光が裏側からも照らしているので、花は光の渦にもまれるように、まぶしく照りかがやいていた。豪奢(ごうしゃ)で、豪奢がきわまってむしろはかなげにも見えるながめだった。――
夫の昇進を友人と争う妻・田鶴が、一方で小太刀の使い手として重臣の不正に立ち向かう『榎屋敷宵の春月』で、夫に賄賂用の金はあるかと聞かれたあと。
――夫が書斎に去ったあと、田鶴は一人残ってぬるくなった茶を飲んだ。夏の一日は長く、射しこむ日射しで雑木林がまだ明るんでいるのが見える。ただし雑木林の前面は、家の影に入って黒っぽくなってしまい、そのために内部が明るい雑木林は、大きな蛍籠に見えなくもない。 ――金などはない。 と、田鶴は明るい中にかすかに秋の気配が混じる雑木林に目をやりながら思った。――
かつて道場で竜虎と並び称されながら、その後、仲違いしていた友人の切腹に不審を抱き、その無実をはらす『切腹』で、主人公・助太夫が息子から友人の切腹を告げられあと。
――助太夫は、障子をひらいて縁側に出た。古い濡縁(ぬれえん)をきしませて蹲(うずくま)った。部屋から流れ出る灯(あかり)のいろがねっとりと濃いのは、春が闌(た)けた証拠である。夜気は昼のあたたかさを失っているものの、まだやわらかかった。かすかに花が匂(にお)っている。庭隅(にわすみ)に花をひらきはじめた白(しろ)木蓮(もくれん)だろう。――
ねっとりと濃い灯の色に重なるように助太夫の怒りは闌(た)けていく。その中でかすかに匂う開きはじめた白木蓮に、ひそかに固まる助太夫の決意のようなものを感じる。
遊び人に騙されて女郎屋に売られ、病みついた妹を助けに行く『帰ってきた女』で、兄の錺(かざり)職(しょく)・藤次郎が、妹を慕う口の不自由な職人・音吉と娼家街に踏み込む場面。
――あらためて、だらしない肉親に対する怒りが湧いて来て、藤次郎は胸が煮え立った。 「来い、音吉」 藤次郎は荒々しく言うと、路地に踏みこんで行った。何とも言えない悪臭が、藤次郎の顔をつつんで来た。それは酒の香と物を焼く匂いが入りまじっているようでもあり、また女の脂粉の匂いと男の欲望のまじり合う匂いのようでもあった。――
ここで、悪臭がつつむのは藤次郎の体でも鼻でもなく「顔」であることに注目したい。腕のいい職人として認められはじめた兄の、まさに「顔」つぶしのような妹に憤慨しながらも、胸が痛くなるような憐れみ哀しみが伝わる場面である。
川岸のぼろ小屋に住んで川掃除をする貧しい老人・万蔵と暮らす孫娘おつぎに、畳表問屋を継いだばかりの三之助が、子供のころから抱いていた負い目を晴らそうとする『おつぎ』で、幼いころ見た川岸での情景。
――小屋からさほど遠くない河岸で、老人が長柄の鎌を使って川の中にひっかかっているものを流そうとしていた。そばに首の細いおつぎが立ってその仕事を見ていた。大川の向うに日が落ちるところで、その赤い光の中に二人の姿が逆光になって黒くうかんでいた。老人と子供は言葉をかわすでもなく、一人は黙々と身体を動かし、一人は黙って立っているだけだったが、その光景から三之助が漠然と感じ取ったのは、ひとのしあわせというようなことだった。――
主人公の三之助は、この老人にかかった人殺しの嫌疑を晴らせるかもしれない目撃情報をもっていたが、事件とのかかわりを恐れた母親から口止めをされてしまった。 「あのしあわせをこわしたのは、おれだ」と想いつづけた三之助は、裕福な商家との縁談を断っておつぎを探そうとする。つぎはその最後の二行である。
――入り込んだ町は暗かったが、三之助の脳裏には、逆光にうかび上がるおつぎと祖父の万蔵の姿が見えている。おつぎを見失ってはいけない、と必死で思っていた。――
婚約者がいながら藩主の側室にという、またしても理不尽な運命にさらされた女性が、その後尼となり、かつての婚約者の切腹を救う『雪間草』で、婚約者と別れる場面。
――歩いているうちに二人は雑木林を抜け、林の外をぐるりと回っている小川の岸に出た。川は涸れがれの水がささやくほどの音を立てて流れ、岸にも岸から川の半ばまでのびている砂洲にも、まだ雪が残っていた。そして川のむこう岸には見わたすかぎり雪の田圃がひろがり、雪が溶けて黒い土がのぞいているくぼみが点々と散らばっているのが見えた。(中略) すると雪の間に、去年の枯れ草にまじる青々とした、しかし雪に押しつぶされていびつにゆがんだ形の春の草が見えた。 ――草でさえ……。 自分の力で春をむかえようとしているのに、と松江は思った。――
そしてすべてが落着した最後のページ。かつての婚約者は服部吉兵衛、藩主は信濃守、松江は松仙になっている。
――提灯を借りたが、提灯の灯もいらない月夜だった。歩いて行くうちに、武家屋敷の塀の内からさしかける桜の枝が、道に花びらをこぼすのが見えた。 ――ともかく……。 これでひと区切りがついた、と松仙は思った。服部吉兵衛とのことも、信濃守とのことも。 吉兵衛と別れた日、龍覚寺裏の川岸で見た雪間の青草のことが思い出された。あの弱々しかった草が、いまになってやっと一人前の草に育ったような気がするのは、吉兵衛が藩のため、主君のため黙って腹を切る覚悟が出来る男になったのを知ったこと、その吉兵衛を、首尾よく助けることが出来たことが快く胸に落ちついて来るからかも知れなかった。 足は疲れていたが、松仙の気持は軽かった。夜の光の中に散る花の下を、いそぎ足に町はずれの尼寺にむかっていそいだ。――
説明はいらないと思う。このように藤沢作品では、自然描写が作品のすみずみにまで染み透り、あるときは物語の大切な伏線になり、あるときは主人公たちの心情や行動を映し出す鏡になったりしている。
美しい描写、美しい日本語に洗われるように、男も女も美しく強く立ち振舞い、読む人の心根までを美しくしてくれる。これぞ男も女も超えた読書の最大の「嗜み」と言えるのではないだろうか。
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