No.826 明けまして 投稿者:木器 投稿日:2023年01月01日 (日) 08時11分 [ 返信] |
おめでとうございます!と言わねばならないところですが、おととい田舎のお葬式で、お世話になった年長の従兄に弔辞を差し上げる大役を仰せつかり、ほとんど寝ないで言葉をまとめた後、緊張のあまり声が震え足もふらつく中でこの大役を果たしたものですから、疲れ果ててしまいました。
ただ、部分入れ歯をがたつかせながら苦心して読み上げた「お悔やみと感謝の言葉」がすこしは故人のお人柄を伝えるのに役立ったのか、皆さんからありがたいお褒めをいただいたので、まったくのわたくしごとで申し訳ないのですが、この敬愛する従兄・長谷部信年さん(享年96歳)のことを少しでも知っていただきたく、失礼を顧みずつぎに掲げさせていただきます。お暇の折に気が向いたら見てあげてください。
長谷部信年さんへのお悔みと感謝の言葉
四日前、信年さん突然の訃報を聞き、いよいよお別れの日が来てしまったか、もう一度あのお元気な声と飯田弁、朗らかな笑い声が聞きたかったのにと、残念でたまりません。 母方の従兄弟に当たる私には、信年さんに年のより近い姉が二人いました。でもすでに他界していて、ほかにも年長の従兄弟がいらっしゃるのですが、家が近くて、もっともお世話になったこともあり、ご指名をいただいたものと思います。 とはいえこの大役が務まるか、妻や弟二人にこぼしたところ、「何を言っているの。お話したいことたくさんあって困るくらいでしょ」とハッパをかけられてしまいました。そこでなんとか、弟二人の協力でお話しします。
じつは私の故郷、川路での生活は、長谷部家、「菊の本」さんとともに始まりました。転勤族だった父が突然、飯田勤務になりまして、私の小学校入学の数日前に川路に引っ越してきました。 仮住まいが学校から遠くて、何かと落ち着かないので、「うちから通ったら?」と言ってくれたのが「菊の本」さんでした。それから毎日、私は「菊の本」さんから「行ってきまーす」「行ってきましたー」と学校に通いました。そして2年近く長谷部家の家族のように育てていただきました。 信年さんとは15も年が違うのですが、私「茂喜」のことを「シゲちゃ、シゲちゃ」と弟のようにかわいがっていただきました。兄のいない私には憧れの見上げる存在でした。もっとも年格好から言えば二人の姉のほうが近かったので、あちこちハイキングなどに連れて行っていただいたようです。もしかしたら姉たちにはほのかな思いもあったのかもしれません。信年さんもその思い出を楽しそうに話してくれました。
その後、大人になってからも伺うのを楽しみにしていたこの長谷部家、「菊の本」さんの雰囲気は、何といっても信年さん八千代さんご夫妻と、ご両親の覚伯父さん、ぎんゑ伯母さんの作り出すゆったりとした何とも言えない和やかな空気でした。伺うたびに私も女房も、どれほどこの空気に癒されたかしれません。 とりわけ、長年体が不自由で寝ていらっしゃった伯母さんが、何をするにも伯父さんの手を借りなくてはできなかったのに、伯父さんや信年さんご夫妻の「はいはい」と気持ちのいい笑顔での介助で、本当に本当に幸せそうだったことが忘れられません。この姿こそ長谷部家の優しさそのものだと思いました。
お宅へ伺うたびに、「よー来た、よー来た、はーるかぶりだなー、なかなか行きあえんでゆっくりしていきなんよー」と言いながら、あの極上の玉露をじっくり時間をかけて淹れてくださった伯父さんの手つきと話しぶりは、そのまま信年さんに受け継がれて、懐かしさで涙が出てしまいました。 信年さんとお話しして、二人のお婿さんの話、お孫さんの話になると、飛び切りの笑顔がさらに飛び切りになって、こちらも嬉しくなりました。 きょうだいのようにつきあった懐かしいいとこたちが、それぞれいい年になって集まる「いとこ会」というのを始めてくれたのも信年さんでした。
このお人柄から、お仕事の教職ではたくさんの教え子に慕われていたのは当然でしょう。36災害のときなど、川路の学校では教科書が水浸しで使えなくなって困っていましたが、当時、下条に勤務されていた信年さんが奔走して、村中から教科書を集めて届けてくれたそうです。 36災害の跡地の利用問題でも、地域のために大変な貢献をされたようです。私の友人が信年さんと対立する側の交渉相手だったのですが、「長谷部さんほど手ごわい相手はいなかった」と舌を巻いていました。 福島家としての最大の恩義も、36災害がらみです。災害後、わが家の周辺の旧家はどんどん高台へ引っ越したのに、わが家は土地がなくて移動できないでいました。そこに救いの手を差し延べてくれたのが、「菊の本」さんでした。お宅に近い所有地をわが家に提供してくださったのです。 以来、名実ともにお隣づきあいをさせていただき、私の父母、とくに母は仲のよい姉の近くに移れて、どんなにかどんなにか救われたことでしょう。どれほど感謝しても感謝しきれません。
一つだけ残念だったことがあります。それは、最近、私が出版の仕事で作家の五木寛之さんのお手伝いをしたとき、五木さんが36災害のときに川路に取材に来た話が出て、そのとき聞いたというダム反対の歌についてです。 「大天竜をせき止めて/自然の流れ阻みつつ/川底深く砂を積む/泰阜ダムを恨むべし」という歌詞は、五木さんが書き留めてあったのですが、曲がどんなものだったかがわかりません。これはぜひ当時をよく知る信年さんに聞かなければと、娘さんの智子さんにお願いしたのですが、すでに体調を崩されていて、願いは叶いませんでした。
でも、伺うところでは、信年さんは最期の日に近くなっても、看護師や介助スタッフの呼びかけには、いつも笑顔で応えていらっしゃったようで、彼女たちも「長谷部さんの担当になると救われる」と言っていたそうです。 信年さん、私どもはまだもうすこし現世で頑張らなくてはなりませんが、ほどなくまた別の世でお会いできるよう、そしてまたあの値千金の笑顔を見せていただけるようお願いし、冥福をお祈りしつつお悔みと感謝の言葉とさせていただきます。どうもありがとうございました。
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