No.2990 運動会の季節 投稿者:木器 投稿日:2025年09月30日 (火) 09時08分 [ 返信] |
9月もついに最終日を迎え、明日からは10月、運動会の季節です。 わが孫坊主の通う小学校でも運動会の練習が続いているらしく、親やジジババたちの中には当日を楽しみにしている人も多いでしょう。
わが家でもこの話題が出ましたが、どうもわが孫坊主は徒競走が苦手らしく、それもかなりビリに近いらしいとのこと。 あ、そう、とこともなげに受け流す風を装う私の心胆を見透かしたのか、妻が「運動会っていうといつも思い出す文章がある」といいます。
どれ?といって見た文章が次のもの。星野弘詩集の中の「少年少女たち」と題された幾編かの中の一編です。 島田坊やさんの紹介してくれた少年少女たちのきらめきも、まだ余韻で残っているなかで……。
星野弘詩集より「少年少女たち」
(一)
私の手許に 『光芒――加治宏之に捧ぐ』という追悼文集がある。 昭和五十七年夏、脳腫瘍を病み 十月二十七日、十五歳の若さで生涯を閉じた宏之君のために ご両親、ご姉弟及び親戚の皆さんが思い出を綴り 入院中の記録や 宏之君の書いた作文などと共に一冊にまとめたもの。 その第四章「あの日たち」は お母様の書かれた思い出の文章であるが 中に、こういう一節がある。 «確か同じ七月だったね、お母さんが中三の頃教わった グレシャムの法則「悪貨は良貨を駆逐する」を思い出し て宏之に話したのは。 「ひとは良い貨幣が入るとそれを財布にしまい込む。悪 い貨幣が来ると、早く出したがる。結局世の中には悪い 貨幣が流通するってわけなんだって。」 すると宏之はこともなげに言ったね。 「そうかなあ、ぼくはいつもいいお金から出すよ。」 「どうして ?」 「だって相手の人がいい気持だもの。」 »
(二)
某新聞に「学園ひろば」という読者投稿のコラムがあ り、某日、 <なぜ「四十二等 !」 >という、ー主婦の文章 が載った。こういう内容である。 «「持久走大会、いやだなあ。」と小学一年生の娘。いつ もビリだからである。「ビリでもいいのよ、最後まで走 ることが立派なんだから。」と私。「今日の体育の時間も 四十二等でビリだったの。」「四十二等まで全部わかる の?」「うん、先生がゴールの所で、何等何等って言う んだもの。――私は啞然とした。十等くらいまでなら 賞讃の意味で発表するのも良かろうが、何故すべての順 位を声高に言わなくてはいけないのだろう。子供の気持 というものを一体どう考えているのか。ビリで最後まで 走った娘を待っていたのが、四十二等の声だったなんて、 やりきれない思いがする。 »
この投稿者の名前は「匿名希望」で伏せられている。 ところが、この記事の載った日の一週間あと、同じコ ラムに、 <なぜ「四十二等 !」 >を読んだというー主婦か ら、こんな文章が寄せられた。 «わが一人息子も運動は大の苦手。一年から五年まで運 動会での走りは完璧にビリでした。来月の運動会でも、 そうだと思います。お気持、よくわかります。でも、よ ろしいではありませんか。参加し完走できることで私は 満足です。 (中略 ) 息子は三年生の時、「七十等」の先生のお手作りのき れいなカードを持って帰ってきました。息子は「七十一 等のお友達は、試走の時、ぼくより少し前だったのに、 おなかでも痛かったのかしら !」と、自分より遅かった 友達を心配しておりました。 来年の卒業前、二月にある最後の持久走大会には、元 気で参加できることを願っています。 » 鹿児島市、四十八歳の主婦の一文である。
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