今週月曜日の新聞俳壇に、なんとぞろり食いしん坊の舌を刺激する垂涎の句が並んでいました。 しかも一番若い選者、小澤實さんの選では、選ばれた10句のうち9句までが食べ物の句で、酒の肴をはじめ食いしん坊の木器は嬉しくなってしまったのです。
*焼かれつつ 南無南無南無(なむなむなむ)と栄螺(さざえ)かな(川越市 益子さとし)
【評】栄螺の壺(つぼ)焼きである。栄螺の貝殻を鍋に見立て、そのまま火にかけているのだ。その時の音を「南無南無南無」と聞き取ったのが秀逸。実は残酷な料理だ。
*競ひて浅蜊口開くなり酒振れば(北本市 萩原行博)
【評】こちらは浅蜊(あさり)の酒蒸しである。一見、酒を喜んで口を開けているように見えるが、熱に耐えかね口を開いているわけなのである。
食い物の句と言えば、忘れられないのが拙著『男の嗜み』に酒との絡みで挙げた次の2句です。
*牡蠣(かき)よりも海鼠(なまこ)の黙(もだ)ぞ深からむ(相生垣瓜人) *白魚(しらうお)にあはせて燗(かん)をぬるうせよ(丸谷才一)
そしてこうコメントしました。
――「もだ」がいい。人間の饒舌が軽薄に見えるほど、この牡蠣と海鼠の「沈黙」が気高く見えてくる。しかも、なぜか海鼠のほうが牡蠣よりもっと黙りこくっているという、この俳人の感覚が見事である。ま、「牡蠣より海鼠」と言ってもその「もだ」の差はわずかなものだろう。とにかく比較したくなるほどこの両者の「もだ」は深い。おかげでまた、この海鼠と牡蠣を食すときの楽しみが増えた。
「そうだよな。あんたたち、こうやって俺様に食われるんだけど、ほーんと一言も文句も恨みも言わないよね。言えないんじゃなくて、言おうともしないんだよね」 そう語りかけながら飲もう。そして白魚のときは燗をぬるくして――。――
この本を書いた同じ年に、読売新聞の朝刊で連載されている「四季」というコラムで、筆者の長谷川櫂氏が、この「牡蠣と海鼠」の句を取り上げられました。
小生がこの記事を見て本に書いたか、書いたあとで記事を見つけたか、どちらが先かは忘れましたが、ほとんど同時期であることは確かです。 長谷川氏は、この句を紹介してこう解説されています。
―― 海鼠を嚙みしめながら思ったのだ。海鼠の沈黙は牡蠣の沈黙より深いと。人間はおしゃべりな生きものだから、太古の昔からロをきかない牡蠣や海鼠の気持ちはわからない。ただ、牡蠣をすすり、海鼠を嚙むとき、その沈黙の味が少しわかる。――
それにしても、この栄螺とか牡蠣とか海鼠など、水中の珍味は生き物としてはユニークな存在ですよね。俳人・歌人たちの創作意欲をそそるのでしょうか、つぎつぎと句や歌に登場しています。
*そういえばお前も浮世嫌いとか手酌の愚痴を聞いてよ海鼠(東京都 佐藤勝美。25-3-17黒瀬珂瀾選)
*恬(てん)として海鼠たる身を疑はず(神奈川県 中島やさか、17-2-14 小澤實選)
【評】人間から見ると、なまこは不思議なかたちと思うものであるが、なまこ自身は不思議とも何とも思わず平気でいるというのだ。なまこの内面まで踏み込んで詠んでいる。
*三つ星の店のメニューに田螺あり(栃木県 あらゐひとし。17-2-14、矢島渚男選) 【評】三星マークは料理店の格付けで最上とされるが、その店のメニュウに田螺(たにし)があった。私など農家で食べた田螺汁がパリのエスカルゴより美味だった。美味は経験的・主観的なもの。普遍的なものではない。
しかし改めて思うのは、牡蠣よりも海鼠の「黙」が深い理由は何だろうということです。 この哲学的な問いに、どなたか挑戦してみていただけませんか?
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