コーメイさん、おっしゃるとおりですよね。 もういつお迎えが来てもいい、というのはまさに同感ですが、自分の場合、もういつお迎えが来て「いい」とまでは言えず、いつお迎えが来ても「しかたがない」、そういう時期になったという気持ちでしょうか。 いつかはそのときが来るのだとつねづね思っていたものが、いよいよ現実に来てしまった、と思わざるをえなくなってしまったということです。
もう十分、もう思い残すことはない、という境地、心境にまでにはとても至りませんが、あと何年、あと何カ月と言われたとしても、従容として受け入れるしかない気持ちには変わりありません。 そして今ここで自分の人生が終わりを迎えたとしても、「いい人生」だったと感謝を込めて言うことができる、そのことも同感です。
ただ、ふと思うのは、あのベストセラーを何冊も書いて誰もから羨まれる幸せな人生を送ったはずの多湖輝先生が、晩年、なぜか私に繰り返し言った言葉が今でも気になっています。
先生は、最後の病床に就かれてから、何度もこうつぶやくように言われたのです。 「ねえ、僕の人生ってこれで十分よかったんですよねー、いい人生だったんですよねー」 私はもちろん、そのたびにすぐこう答えました。 「もちろんですよ。何をおっしゃるんですか。先生ほどいい人生を送られてきた人はめったにいません。それは奥様が一番よくご存じでしょう」
じつは、先生は私に対して言いながら、本当は奥様に対して言っている感じを受けました。奥様が自分との人生をどう感じているかを気にかけて、確かめるようなニュアンスが感じられたのです。 すべてが順調に見えた先生ですら、自分の人生を振り返ると、繰り返し反問せざるをえない気になることがあったとすると、私など気になることだらけになってしまいます。
こんなことを言うと、なにか未練がましくなりますが、自分にとってはもったいないくらい「いい人生」だったと思えたとしても、自分の人生が相手の人生を左右する関係にある人たちの人生、本来なら安心して生きられるよう守らなくてはならなかった長年の連れ合いや子どもたち、そして会社で働いてくれた何十人もの社員たちまで、その人たちの人生を「いい人生」にするのに役立てたのかと振り返ると、その逆だった部分が多すぎるという悔いが残ってしまうのです。
コーメイさんが触れてくれた石毛泰道さんの本の前著、『70歳からの禅の教え』にも引用されていますが、『釣りバカ日誌』のハマちゃんの有名なことばがありますよね。 「僕はあなたを幸せにする自信なんかありません。でも、僕が幸せになる自信はあります」
この言い方を借りれば、 「自分の人生はとても幸せだったけれど、あなたの人生が幸せだったかどうか、はなはだ自信がありません」 私の場合、「いい人生」と言うにはそのあたりの感覚が引っかかってしまいます。 やはり未練がましくてちょっとみっともないですが……。
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