新聞の連載小説は、今まであまり読んでいなかったのですが、読売の今の3本はなかなかの作品で、毎回楽しみに読んでいます。
1本は『家康と七人の忍び』(佐藤賢一)。名のある侍たちの後ろで、じつは忍びたちが時代を動かしていたのでは、と思えてくる意外感がたまりません。
2本目は『スナックふたり』(川上弘美)。小生にも覚えがあるなじみのスナックでのママと客たちの人間味、そしてカラオケがらみの話がおもしろい。
3本目は『函(はこ)』(松家仁志)。これはまさに小生と同時代の出版界の話で、他人ごとではありません。明らかに新潮社とわかる老舗出版社の周辺を舞台に、時代が求めなくなっていく函入りの本に象徴される急激なメディア界の変貌を描いて興味が尽きません。
その『函』の第56回(4月15日)に、先日ちょっと触れた「想像力」についての一言があり、思わず書き留めてしまいました。 さまざまなテーマの本がある中で、政治・経済・社会・教育など実社会への影響や効能を期待される本の一方で、文芸・文学に属する本の役割は極めてぼんやりしています。
これに対する一つの答えがこの一言にあると思ったのです。
「私たちはけっして他人にはなれないのである。しかし、他人のこころを想像してみることはできる。文学から得られる教養とは、想像し共感するカではないか。」
じつはこの前段に次の文章があります。長くなりますが、この一言が引き出された経緯がよくわかるので、ご興味があればお読みください。
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本から得られる教養とは、なんだろう。 科学や経済学、社会学の本は、世界を分析し、われわれが目指すべき方向を、さし示す手立てを与えてくれる。
文学から得られる教養とはなにか。
描かれるのは「人」である。時代も、国も、登場する人物の性別、年齢、育った環境、直面する問題まで、じつにさまざまな設定で物語がすすむ。世界に絶望している人が描かれているかもしれず、恋人のことしか頭にない人が描かれているかもしれない。『恍|忽の人』のように、冒頭、雪のちらつくなかを、買い物袋を両手に抱えて帰宅する普通の人間かもしれない。
ただひとつはっきりしているのは、私たちには何の縁もない人々だということ。 自分とはあきらか(こ異なる登場人物に、私たちはことばを介して接し、物語を読むあいだつきあうのである。ときには、その人物に入れこんでしまい、自分の経験のように感じながら読むこともあるだろう。 時間の経過もさまざまだ。たった一日の出来事が大長編になっていることもあれば、一冊の本のなかで、三世代、四世代の一族の物語が描かれる場合もある。
私たちは他人とつきあうとき、他人が頭のなかでなにを考え、どう感じているのかはほとんどわからない。表情やことばから察することはできても、究極のところ、他人がほんとうに考えていることなどわかるはずがないのである。
文学に触れるとき、人間とはじつにさまざまな考え、感情を抱き、行動する生きものであること、また本人でさえ、おのれの考えがわからなくなる場合もあると知る。 文学に「正答」は用意されていない。「正答」を求める主人公がいたとして、その途中で迷い、道を見失い、茫然とする姿こそを鮮明に描くのである。 迷っているこっちもますます迷わされるだけ、なんでそんなものを時間かけてわざわざ読まねばならないのだ、と考える人に、無理強いして読ませるものでもない。
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