No.2468 気の弱り 投稿者:木器 投稿日:2025年01月27日 (月) 07時40分 [ 返信] |
柏雀さんが【ひとこと】に書いてくれた古川柳「ふるさとへ廻る六部は気の弱り」は、かの藤沢周平のエッセイ集のタイトルにもなっていますね。
調べたら川柳の原典は、誹風柳多留の「古郷へ 廻る六部ハ 氣のよわり」。 「六部」とは、六十六部の法華経を六十六か所の霊地に納めるために白衣に手甲、脚絆姿で巡礼した僧のことだそうです。 あちこち歩き回って疲れ果て、ふと故郷に足が向く、それを「気の弱り」と言ったのでしょう。
柏雀さんも、その藤沢氏の『ふるさとへ廻る六部は』という本が念頭にあったのかもしれませんが、その1冊の中の1編に、書名の元になったと思われる同じ題名のエッセイがあり、藤沢氏の「気の弱り」がどんなものだったか興味ある記述が出てきます。
藤沢氏は山形県の出身なのに、というかむしろ東北生まれだったからこそなのか、東京に出るまで東北のほかの県には一度も行ったことがなかったそうです。 自分自身が東北そのものであり、なんとなく東北のことはわかっているつもりになっていたようだというのです。
ところが、東京の勤め先の社員旅行で初めて東北を旅したり、仕事で東北を通り過ぎたり、さらには同郷の友人と故郷・庄内のことが話題になったりするうちに、いつかひまを見て改めて東北に行ってきたいと思うようになったと言います。
そして、こう書いています。
――私はもう、行かなくとも東北はわかるなどという幻想を持っていなかった。私の心の中に、いつからか行かねばわからない東北が、ジリジリと領域をひろげていた。それは多分、私がもはや完全な東北人ではなく、半分ぐらいは東京人になってしまったために見えて来た風景だったのだろう。 (中略) つまり世の中をぐるっと迂回して、興味がまた東北にもどって来たということで、本人は東北を認識し、あわせて東北人である自分を再認識するための旅と思っているのだが、ひょっとするとこれが、むかしの人が言った「ふるさとへ廻る六部は気の弱り」というものかも知れないのである。――
なるほどと納得させられます。そういえばこの本の最初のところでも、作者はこう書いています。
――山形県西部、庄内平野と呼ばれる生まれた土地に行くたびに、私はいくぶん気はずかしい気持で、やはりここが一番いい、と思う。――
ここに書かれた「気はずかしい気持ち」に私は心を打たれました。 なにか自分にも、そういう気持ちがあるような気がしたからです。 ずっとまえから、ときどき仕事の修羅場から逃げるように田舎に帰り、しばらくそこで過ごした後、また東京に帰る、そのときの気分というのが、なにか天国から地獄へ向かうような、イヤーな気分だったのを思い出します。
仕事の場でのピークが過ぎ、下り坂に入ってからは、あまりそういう気分にはならなくなりましたが、今でもやはり田舎に行くたびにほっとした気分になるのは、川柳の言う「気の弱り」を癒してくれる場所だからかもしれませんね。
この私の気分を反映したのか、妻や娘たちなども田舎に行くのを楽しみにしている理由として、このほっとする気分を挙げていました。 私のセリフならともかく娘までも、飯田に「行く」より飯田に「帰る」という言い方をするのを、田舎の兄弟が喜んでいたのも思い出します。
柏雀さんの【ひとこと】のおかげで、久しぶりに思い出すことがたくさんありました。こんなところにも、掲示板のありがたさを感じます。改めてありがとうございました。
余談:久しぶりに字の小さい文庫本を引っ張り出し、苦労しながら読んでいたら、「池波さんの新しさ」という興味深い一文が目に留まりました。前に読んだかもしれませんが、忘れていて改めて大変面白く読みました。藤沢・池波両氏の愛読者には見逃がせない文章だと思いますので、付記しておきます。
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