No.2284 名作『蝉しぐれ』の競作映像 投稿者: 木器 投稿日:2024年12月01日 (日) 08時51分 [ 返信] |
8月7日の木器投稿でも触れた藤沢周平の最高傑作と言われる『蝉しぐれ』に関しても、映画化・テレビドラマ化の両方について、あるいはこの比較で、いろいろな議論があったようです。
専門家の見解はともかく、一般読者の藤沢作品人気投票では、まず首位を占めているこの長編小説は、長い間、映画化・ドラマ化が待ち望まれていただけに、それが相次いで実現したときの期待感は、おそらく今までの藤沢作品映像化の中で最大のものだったでしょう。
これについても拙著の中で思いのたけをつづったものがあります。 8月の木器投稿時、ボラさんから思いもかけず彼の現役記者時代の藤沢氏取材記事をご提供いただき感激でした。 そのときボラさんには読んでもらいたくて、この拙著コピーをお送りしました。
今回、ここまで藤沢作品の映画化について投稿してきたので、ボラさんだけでなく、多くの皆様にも、もしご関心があれば読んでいただきたいと思い、以下、藤沢作品の映画化「ハテナ」の続編としてアップさせていただきます。 お気が向いたらお付き合いください。
*テレビの有利さに負けた映画『蝉しぐれ』
もうひとつこれは映画対映画という対等の比較にはならないが、NHKの金曜時代劇で二〇〇三年八月から十月にかけ、七回に分けて放映された『蝉しぐれ』と、二〇〇五年十月一日より全国東宝系で公開された映画『蝉しぐれ』では、単純に上映時間を比べても、テレビの合計時間が三百十五分、映画が百三十一分だから、テレビ版は映画の二・四倍の時間を使ってたっぷりこの長編を料理している。
しかし、こうした違いはあるものの、脚本はどちらも黒土三男氏である。私はたまたま縁あって、映画化を推進する鶴岡市で映画の撮影まえからこの話を聞いていたので、公開が気になっていた。 そしてどんな経緯があったか知らないが、映画のまえにNHKテレビ版が放映され、これがじつによくできていたので、映画版は相当割を食うのではないかと思っていた。
原作との気になる違いは、NHK版ではほとんど見られない。 もちろん話の展開は、テレビでは、冒頭に最後のシーンをちょっと出す倒叙法式、回想形式になっていて、ほとんど時系列で書かれている原作とは違う。 まあこれくらいは、違っているうちに入らないと思うが、映画など映像作品ではよく採用する方式である。
とくにこの『蝉しぐれ』の場合、原作の評判が高く、観客はすでに本を読んでいる可能性が高い。 となると話の展開、場面の順序まで原作と同じでは、芸がないということになるのだろうか。
それとも、最後の逢瀬の二人を最初に見せ、少年少女時代からのドラマ全体を通じて、つねにその最後の二人を意識させようという考えなのだろうか。
それを私は、鶴岡市の関係者からチラッと見せてもらったシナリオで知ったのだが、テレビではまさにこのシナリオどおりだった。
テレビ版がもう言うことなしの秀作だったことはすでに書いたが、では映画版はどうだったか。 これは、脚本の黒土氏が監督も務めているから、もっと脚本どおりかと思ったら、意外なことに倒叙法・回想方式は取られておらず、冒頭はむしろ原作どおりだった。
庄内地方の風景も美しく映し出され、藤沢作品の雰囲気をよく伝えていると思った。 ただ、主人公・牧文四郎は、原作ではどちらかといえば泥臭く生真面目な男である。その意味からすると、映画初主演の市川染五郎(現・松本幸四郎)は、歌舞伎界の押しも押されもせぬ御曹司で血筋がよすぎる感じがした。
おふく役の木村佳乃は美しい女優だが、私の個人的印象が、大河ドラマ『北条時宗』で演じた水軍松浦党の娘・桐子が男言葉でしゃべる男勝りの役だったので、その印象が私の中に残ってしまっていて困った。
映画版で、もっともテレビ版とも、従って原作とも違ったのは、じつは最大のクライマックスにおける二人の関係であった。 つまり、ずばり言うと、映画版ではその一番大事な最後の逢瀬で、二人が結ばれたかどうか、それが曖昧、というか、結ばれないままきれいに別れたようにも見えるのである。
これはじつはとくに女性読者、女性観客にとっては重大なことらしい。 私が見に行った東京郊外・新百合ヶ丘のマイカルシネマは、中年女性客が圧倒的に多かった。今にして思うと、もしかしてその日はレディース・デイだったかもしれない。
その女性たちが、映画の終了後、感激の面持ちでハンカチ片手に感想を述べ合っているのを聞くともなしに聞いていて、ああやはりそうだろうなと思ったのである。 「なんか最後が中途半端よねー」 このセリフに、すべてが込められているように感じた。
たしかに原作では、明らかにそれとわかる書き方がされている。 藤沢作品では、もちろんあまり露骨な表現がとられることはない。男女の営みについても、「そのこと」などと婉曲な表現ですまされていることが多い。
ところが、この名作『蝉しぐれ』のクライマックスにおいて、作者はかなりはっきりと愛の交歓をこの二人にプレゼントしている。その部分を引用してみる。
――ありがとう文四郎さん、とお福さまは湿った声で言った。 「これで、思い残すことはありません」 (中略) そして駕籠は、助左衛門が見守るうちに、まばらな小松や昼顔の蔓に覆われた砂丘の影に隠れた。それを見とどけてから、助左衛門は軽く馬の顔を叩き、一挙動で馬上にもどった。ゆっくりと馬を歩かせた。 ――あの人の……。 白い胸など見なければよかったと思った。その記憶がうすらぐまでくるしむかも知れないという気がしたが、助左衛門の気持ちは一方で深く満たされてもいた。会って、今日の記憶が残ることになったのを、しあわせと思わねばなるまい。―― せめてNHK版程度の節度ある表現で、「そのこと」をサービスしてあげることが、映画版ではなぜできなかったのか、あるいはしなかったのだろうか。そこにはもしかして深い芸術的配慮があったのかもしれない。
そのあたりを推理してみるのも、この名作の映画と原作の楽しみ方の一つになるかもしれない。
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