No.1323 どうしようもなくて「どうする……」を観る。 投稿者:コーメイ 投稿日:2023年07月31日 (月) 21時21分 [ 返信] |
昨日の伊賀越え、本能寺で信長を討った光秀が、ライバル家康の首検分をする場面があった。話を進めて、再びその場面に戻ると、「これは家康ではない!梅雪じゃ!」というシーン。
1カ月程前、ネットの記事で、光秀の信長討ち諸説ある中で、初めての説を目にしたのだが、「光秀は、武田の家臣・穴山梅雪と密かに通じていて、梅雪が、信長に寝返ったため、そのことが信長の耳に入れば、ただでは済まないので、先手を打って信長を討った。」というものだった。
伊賀越えも諸説あるが、家康が堺から伊賀越えをするのに、わざわざ本能寺のある京都方面に向かうのは、危険極まりないと何となく感じてはいたが、堺から大和路経由で伊賀に向かったという説もあるという。これもつい最近知った。
無事伊賀を越え、伊勢湾経由で岡崎まで逃げ帰ったというのだが、その船路は、白子港から知多半島先端、日間賀島を回って西浦港なのだろうか?白子は、現在、鈴鹿市で、かつて出張の際、近鉄特急を利用したが、四日市、津は下車しても、白子は下車することはなかった。鈴鹿市での用件は、JR鈴鹿駅を利用するのが便利であった。
鈴鹿市と四日市市に隣接する「菰野町(コモノマチ)」。子供の頃、ここの親戚から毎年「新茶」が送られてきた。今、半導体がらみで、成長している上場会社の本社・工場がある。
日間賀島は、「ふぐ」と「たこ」で有名で、観光客を集めている。名古屋在住の同級生が 幹事で、小学校の同級会をこの島で開催したことがある。蒲郡市には、皇極天皇(594~661)より社号を賜った「形原(カタノハラ)神社」ある。西浦は、三河湾の漁獲類を飯田に卸していた、母方のルーツだが、明治時代に飯田の人間になった。
菰野町は、母方の親戚だが、飯田市松尾町には、かつて、三重・伊勢ゆかりの人達が多く住んでいたらしい。ぼらさんから伺った。
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