No.1098 道教 投稿者:AA2Take 投稿日:2023年04月18日 (火) 14時58分 [ 返信] |
中国は道教の国でもある。 中心をなすのは「タオ」という道理なのだという。ここから儒教も始まった。
老子道徳経の古い写本では、「上篇 徳」、「下篇 道」の編名の順序となっている。「道」・「徳」の順番になったのは、一世紀から三世紀のころとされ、そのころ、章別も行われたとされる。また、老子なる人物が生きたであろう時代と『老子道徳経』が作られた時代には開きがあり、この書は、その系譜に当たる弟子が後年に纏めたものという説や、老子は3人いたという説がある。「道」の内容についても、哲学的な句から、独断的な処世術の句までが混在している。そのため、老子なる人物が生きて著作したであろう時代よりも、もっと古くから伝わっていた諺や名言を、『老子』の編集者は、その著作に取り入れた、とする見解がある。また、古い老子道徳経は、五千字余りしかないにも関わらず、「上篇 徳」、下篇 「道」の順序に分けられている。そのように構成されたのは、本の内容や本の章分けがその原因とはなっていない、と推察されている。老子道徳経が生まれた経緯について考えた場合、古くから伝わっていた諺や名言を作成した人物らがいて、その編集や解説をした人物が「徳篇」を形成し、そこで述べられた道の思想を、増幅した形で「上篇 徳」、下篇 「道」の形に編纂した人物らがいた、ということが考えられる。古い構成を逆転させ、現在のような「道」から始まり「下篇 徳」の形に定着させたのが、老子道徳経であると考えられる要因の一つには、第十八章の、「大道廃れて仁義あり」の句は、孟子と同時期か、あるいはその後輩と同時期の篇者が作成した、と見られていることがあげられる。 「道」という哲学が廃れてきて「仁義」のような儒教の教えが広まった。 林立した小国家が国を大きくして他国を支配するには、儒教を用いる方が、権力者たちには都合がよかった。 道教は、平和的な集団の集まりであったが、儒教が広まった国々は、争いが内在してしまっているのではなかろうか。
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