知識は力なり

「歴史とは、現在と過去との絶え間ない対話である」
(An unending dialogue between the present and the past.)


現在と過去の出来事とのつながり、
そして今後の未来で何が起こるのか?
世界情勢はどこへ向かっていくのか?


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題名:Re:

名前:偽りの代償

◇/g0ykgyHZw
MAIL 投稿日: 2024/04/03(水) 23:12 2a09:2dc0:0:4000:5b0d:ec93:1490:a285(IPv6:ua-vsys-20190124) (2a09:2dc0:0:4000:5b0d:ec93:1490:a285)


釈迦仏法が脱益仏法で日蓮仏法が下種仏法であるということにはなりません。
(五重相対はそもそも『開目抄』の教説です。『本尊抄』を持ってきて継ぐこ
と自体おかしなことです。

また蓮師が言う五重相対は内外・大小・権実・権迹・本迹と見なされます。

本門寿量品の教学的な位置は釈尊が自らの久遠成道を示し、以後結縁衆の脱益
を期するという脈絡ですから、当たり前のこととして本門は「脱」となるので
しょう。

それに比し、蓮師の末法の初めの位置づけは妙法蓮華経の五字を付属された
上行菩薩を代表する地湧菩薩が滅後悪世の末法に弘法するというのですから「
種」に違いありません。

しかしこれは、敢えて書けば、「脱勝種劣」というべき関係にあります。

つまり、経典より五字が勝れるというより、五百塵点已降結縁した衆生の法
華経と、いま釈尊の命を受けて菩薩が衆生を済度するのに付属された五字との
相違であって、倶に元来、その本法を所持するのは釈尊なのであってこの点は
動きません。

上行菩薩はその尊い釈尊から付属を受けて、五字を流宣するわけですから、上
行菩薩が釈尊に勝るわけもなく、また、五字が経典に勝ることにもなりません。

まして、上行を日蓮と見なし、その日蓮が釈尊より勝るなど、どうすれば、そ
んな考えが生じるのか、この倒錯ぶりには呆れるより他ありません。蓮師の嘆
きを籍りれば「下克上」というほかないでしょう。

ただ、余計なことを記せば、蓮師は「末法の初め」と記すのであって、これ
は『大集経』を典拠とするのでしょう。つまり仏滅2000年から2500年を指しま
す。

蓮師の気分はその末法の初めに相当たるということでしょう。では、今はどう
なるのか。已来800年を経てその初めから大きくはみ出しています。

しかし、以降の時代が「種」に当たる教学を創価学会といわず、石山系はなん
ら示していないように見えます。(なお、蓮師が採用した仏滅年代は500年の
ずれがあり、鎌倉時代はまだ像法いうのが今の学問的通論です(参)高木豊師)




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