[9645] 題名:戸田先生指導(抜粋)です。
名前:末端信者
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投稿日:
2024/04/06(土) 07:40
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「日本国再建の根底に、
私は三世の生命観を説き明かした仏法の真髄を置かねばならないと、強く主張してやみません。
それは、正法により、因果の理法の厳然たる存在を知ることができるからであります。
この原理によらずして、もはや日本民族の興隆も、未来の平和への方途も、決まらないのであります。
仏法哲学の基礎にあるのは、生命の因果律であります。釈尊は、これを悟って仏となったのです。
したがって、われら仏法を信ずる者は、この生命の因果律を信じなければならないのであります。
しかし、釈尊が法華経以外の経典において説いた因果律は、
大聖人が『常の因果の定れる法なり』と仰せのように、いわば人間道徳の基本とすべき、
当たり前の因果の教えであり、仏法の極理から見れば、まだまだ低い因果律です。
この因果の法理すら信じられない人びとが、なんで久遠の生命を信ずることができましょうか。
また、地涌の菩薩の自覚が、どうして生まれてまいりましょうか」
「われわれ末法の凡夫にとっては、釈尊が説いた近因近果の理法を叩き破って、
久遠の仏身を開覚する法が必要となってくるわけであります。
この必要に応えて、実際生活において、過去世からの因果を叩き破って、久遠の命に立ち返り、
よき運命へ転換することのできる法を確立されたのが、日蓮大聖人様であります。
すなわち、大聖人様が、『日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ』と仰せになって、
お認めの御本尊に帰依し、南無妙法蓮華経と唱えることによって、
大聖人様と信心の血脈が相通じていくのであります。
そこにおいて、過去世の因果が、皆、消え去って、久遠の凡夫が出現するのです。
すなわち、自身の生命に、久遠の仏を覚知することができて、よりよき運命への転換ができるのであります」
「久遠の仏というと、えらく難しい言葉に聞とえますが、
久遠というのは、″もとのまま、何も立派でない、ありのまま″ということです。
仏とは、命でありますから、自身の命を、″もとのままの命″と悟る時に、
途中の因果が、一切、消え去って、因果倶時の仏が胸中に涌現してくるのです。
釈尊の仏法であれば、過去世の正法誹謗という最も重い宿業は、
来世まで永劫の時間を費やして、少しずつ消していく以外にないのでありますが、
御本尊を拝して、胸中に久遠の仏を涌現していく凡夫は、
すべての宿業を、この一生のうちに軽く受けて、生命を浄化し、人生を輝かしていくことができるのです。
したがって、いかなる難がありましょうとも、この難は、久遠の仏を開覚するための修行であると心得て、
決して信仰の道に迷ってはなりません。一切が御本尊様の仰せと、喜び勇んで難に赴かなくてはなりませんぞ」
「……この当然の行為は、すなわち、われわれをして仏の使いたらしめるのであります。
さればまた、仏から遣わされた者として、慈悲の袋に救いの源泉を包んで人びとに与えること、
これを折伏というのであります。折伏こそ、学会の使命であり、信条なのであります。
されば、われわれは仏を感得しうる大果報の人であるとともに、世の中にその大確信を伝えなくてはなりません。
仏に貧之があってなるものですか。仏が、三世の仏菩薩、諸天善神に守られなくて、なんとしましょう。
現世は、必ず安穏であることが疑いないのであります。
されば、仏の使いの集まりが学会人である、と悟らなくてはなりません。 迷える人びとを、仏の御もと、
すなわち御本尊の御もとに、案内する者の集まりであることを知らなくてはなりません。
このためには、決して、信仰や折伏を、自分の金儲けや、都合のために利用してはならないのであります。
仏罰の恐ろしさを知るならば、そんなことは決してできないのであって、
世にいう悪事などより、はるかに悪いのであります」