[9538] 題名:先生指導(抜粋)です。
名前:末端信者
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投稿日:
2024/03/29(金) 13:18
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法華経を怨む人に二種類ある。
一人は、過去世に善根があって、今世で仏縁を求めて菩提心をおこし、仏になる可能性をもっている者である。
この人は、罵ったり、怨んだりすると(顕罰があらわれて)、
口が閉じたり、頭が割れたりする(精神状態がおかしくなることも含む)。
もう一人は、過去世に謗法を犯した人で、今世にも謗法を犯し、生まれるたびに無間地獄の業を積む者であり、
この人は、罵っても(やがて冥罰があらわれるから)、口が閉じ塞がることはない
大聖人は御書のさまざまなことろで、よき僧侶の条件を明確に挙げておられる。
すなわち、(1)これといった世間的な罪がない(2)権力などに、いささかもへつらわない
(3)少欲知足(4)慈悲がある(5)経文の通りに法華経を読み持つ(自ら修行する)
(6)人にも勧めて法華経を持たせる(布教する)──である。
「剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」
「大地を的とする」とは、絶対に外れるわけがない、ということです。
したがって、この御文は、必ず広宣流布し、日本のあらゆる人々が、
日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経を唱える時がくるとの御確信であり、予言であります。
ただし「日本一同に」と言われたからといって、日本だけということではありません。
それは「一閻浮提に広宣流布して」と、法華経の文にも、大聖人の諸御書にも述べられていることから、
明らかであります。
しかし、強い意識を持って広宣流布のために取り組んでいく対象は「日本」であるという御教示が、
特に「日本一同に」と一言われるお言葉の中に含まれているとも考えられます。
その意味で、私どもとしては、日本の広布実現こそ、世界の平和と人類の幸福のために、
妙法の力が利益していく源泉であると確信していくべきであります。
「皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」とは、いかに題目を唱えることが難しいかということであります。
地涌の菩薩でなければ、題目を唱えられないのです。
まず、人身を受けるということさえまれであります。
人間についての、仏法上の一つの定義は「聖道正器」ということであります。
人間であればこそ、聖道(みずからの成長を目指す四聖、究極するところ仏界、すなわち成仏への宗教)を
歩んでいくことができるのであります。
そのなかにあって、本当に偉大な宗教に遭遇することも、なかなか困難であります。
私どもは、その意味で、誠に「唱へがたき題目」を唱えていることに、感謝の気持ちが込み上げてきます。
ともに「地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目」とは、
たとえ、いかなることがあっても「但南無妙法蓮華経なるべし」の御金言のままに、
題目を唱えきっていくことであります。