宿坊の掲示板
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題名:「青年・凱歌の年」に思う

名前:ClearSky

◇GousGCA3E2
MAIL 投稿日: 2022/10/31(月) 19:37 berlin01.tor-exit.artikel10.org (185.220.101.28)

1. 青年・凱歌の年

2021年末から2022年初頭の拡大キャンペーンで、「青年部10万人増」。
壮婦(壮年部と女性部)が支部2世帯の弘教拡大を達成したと公言する地域もある。
そんな中、2022.10.06の聖教新聞には、明年2023年のテーマを『青年・凱歌の年』としたとの記事が掲載された。このテーマは、大丈夫なのだろうか。

つまり、「青年が凱歌を飾る年」なのか、「青年も凱歌、学会も凱歌を飾る年」なのか、「青年をダシに、壮婦や一部幹部が凱歌を飾る年」なのか。一体、誰の凱歌なのだろうか、曖昧に感じる。また、青年が主役と主張するなら、何をどうやって実現しようとしているのだろうか?
今回は、このことを考えてみたい。


(1) 組織の実態
青年に関して記す前に、組織の実態を少し記しておきたい。
この夏、ある分県長が嘆いていた。毎回の統監で、地区から提出される「退会認定申請」の数が凄まじい、と。「多い時には、地区1名を超える退会認定書を処理しなければならず。中でも、青年部、高齢者の申請が多い」とのことだった。選挙前には、達成率の分母となる地区内の会員数を少しでも減らそうとする心理が働く(らしい)。(心ない幹部は)成果に貢献しない(数字上で足を引っ張る)人達を少しでも減らそうとする。よって、退会申請数は上昇するとの解釈のようだ。

この背景には、おかしな人事で、おかしな幹部を登用した結果、本来やるべき家庭訪問や個人的なつながりを軽視してきたことが原因の一つだ考えられる。しかし、この反省はない。折伏においても、本人や家族の状況から判断して「無理強い」させない方が長く信心を続けられる状況でも、煽り煽られて、「指定の期日までに」と無理に強行した折伏もあるだろう。酷い場合には、周りの制止も聞かず、一部の人間だけで強行したため、中には「組織が不信だらけ」になった地区もある。

「支援」「集金」「新聞啓蒙」等におかしな幹部は奔走する。逆に、おかしな幹部は地道な活動をしない。おかしな幹部は批判者を排除するだけではない。自分にとって、役に立たない人間となれば、一方的に決めつけ、相手にしない。中には会員から外そうとする輩もいる。これが先の「退会認定」の実態であろう。一地域の現象ではない。多くの地域で起きている現象である。これに同意する人達も多いことだろう。

選挙前には、「昭和30年の大阪の戦いをまねた『折伏ごっこ』」が始まる。言葉は悪いが「ごっこ」である。しかも、所詮は形式だ。心がない。中身がない。「入会」に比例した「退会」が増えて、お終いである。

「選挙に力を入れる前に、会員の幸福を祈れ!」と言いたい。

信仰者一人ひとりが幸せに、心豊かになれば、自然と組織は繁栄する。師匠の指南通りに進むべきである。
現在、組織や聖教新聞では「青年が活躍している」と宣伝しているが、実態は逆である。いずこの地も同じであろう。何より、この読者も感じている通りである。

そして、青年を道具にする輩には、辞めてもらった方が学会のためである。


(2) 青年を批判する者たち
ある討論番組で著名な司会者が語っていた内容に驚いた。
「今の若者は、皆、満足している」
「もし不満があったなら、行動しているはずだ」
「行動しないのは、若者は皆、満足しているからだ」と。
一方的な決めつけである。

若者だけが悪いのか。違う。この司会者が無知で傲慢なだけである。当然、番組内では反撃を受けていた。

今の世の中を作ったのは「引退した高齢者世代」と「現役世代」である。ここでは、「大人」「大人世代」と呼ぶことにする。
一方で、若者達は「何をやっても変わらない」「変えられない」と思っている。どんなに「嫌だな」と思っても、「変えられない」「仕方ない」と思っている。更に、「変えていける『可能性』」を日本の若者は信じていない。だから、彼らは「語らない」「叫ばない」「デモもしない」。全て「やっても無駄だ」と思っているからだろう。

あの司会者が言う「若者が何も変えようとしない」のは、果たして「若者の責任」なのだろうか?
私は違うと考える。「大人に責任」があると私は考える。大人達は「自分達は悪くなく」て、後から生まれてきた「若者が悪い」と言わんばかりである。事実、多くの大人世代は、「自分達の時代は…」「近頃の若い者は…」と口にする。自分達は上で、若者は下だと思っているのだろうか。現在の社会を作ったのは「大人」である。若者が生きる環境を若者が「変えられない」ように固定化してしまったのも「大人」である。
厳しく言えば、責任は大人にある。多くの大人世代は「若者に責任がある」かのように言うが、大人達は社会をよくするために何も貢献していない。寧ろ、自分達は甘い汁を吸い、社会を悪化させてきた。百歩譲って、「(何か)やってきた」との自慢を受け止めよう。しかし、「昔できたなら、今もできる」能力が残っているかもしれない。若者に偉そうに語る資格があると思うなら、今でも率先して実行するべきだ。
大人世代が、若者のために動くべきである。
何もしないで、「未だ自信を持てずにいる若者」「未だ挑戦していない若者」を批判する権利など、どこにもない。


(3) 責任の所在
私は、先輩諸氏から「原因は自分にある」と教えられてきた。理不尽だと感じたこともあったが、祈り、反省し、多くのことを受け止めてきたつもりである。「原因は自分にある」。今では、その通りだと考える。それが内道(仏法)であろう。
近年、学会員でもそう考えない者が増えていると感じる。つまり、「自分だけは完全無欠」「自分だけは悪くなくて、悪いのは他の人」「その人間に原因がある」もし何か起こっても「それは本人の自己責任」と。幹部に、同じ組織にいる同志として責任は全くないのだろうか? これでは、もはや仏法ではない。外道である(自分の生命の外に原因を押し付ける意)。「雖学仏教・還同外見(御書383頁)」である。

原因は自分にある。責任は自分にある。確かに、全ての責任が自分にある訳ではないだろうが、責任の一端は自分にもある。だから「自分にできることは取り組もう」とする。これが仏法者なのではないだろうか。

先の若者議論に当て嵌めてみよう。

今の時代を作ったのは自分達(大人世代)である。こんな時代にしたのは自分達である。若者にこんな時代しか譲れなかった責任は自分達にある。
最近の様々な出来事を見聞きして、私は思う。「若者よ こんな日本にしてしまって申し訳ない」「こんな世界にしてしまって申し訳ない」と。
だからこそ、「今の時代がどんなに悪くても、今自分にできることをする」。これが仏法者の考え方であろうと私は考える。

明年(2023年)、創価学会は「青年・凱歌の年」のテーマを掲げた。
「凱歌」。勇ましいテーマである。
しかし、現状では、青年に「結果を持ってこい」と言わんばかりの言葉にしか、私には聞こえない。「青年に何をしてあげられるのか」という視点は全く感じられない。

私は、来年を「青年を信じる年」「青年を育てる年」にすべきだと考える。
「青年に負担を押し付ける」のではなく、「自分(大人)が変わる年」にすべきだと考える。「青年が未来を信じられる」ように、「自分達(大人世代)が世の中を変えていくべき年」でもある。いわば、「大人世代」が「青年のために闘う年」とすべきだと考える。

来年は、そこに「凱歌」はないかもしれない。
なぜなら、「凱歌」はまだ先であるからだ。

今の現状で、来年「凱歌」を期待するのは間違いだ。来年は、「大人」の世代が必死に世の中を立て直す時である。


2. 青年の育成

心ある壮年・婦人(女性部)で青年を育てるべきである。

確かに、青年を育てるのは大変だ。時間が掛かる。10年、20年と、時を待つ場合もあるだろう。それでも、その青年の将来を信じ、声を掛け、見守り続けてあげるべきである。

もしかすると、彼らだけでなく、彼らの親が既に学会から心が離れているかもしれない。しかし、親子そろって、縁あって学会員となった人達である。大切にすべきである。

苗を植えるのは、未来のためである。
青年を育てるのは未来を育てることである。
学会の未来は、青年の中にしかない。

青年を育ててないのに、結果ばかりを求める輩がいる。種も蒔かず、水も肥料も与えず、果実だけを欲しがる人間がいる。

仏法は道理である。「種も蒔かない」「世話もしない」なら、結果が出るはずはない。青年に「凱歌を飾れ」と言う前に、「種を蒔け!」「世話をしろ!」と言いたい。結果はすぐには出ない。故に、来年、青年に凱歌を求めるのは間違っている。

一方で、誰にも頼まれていないのに、未来に尽くす人もいる。その人こそ、「仏の使い」である。いつの日か、彼らが育てた青年が集い、連帯して、仏の集いが実現できる日も来るかもしれない。そんな日に、未来の人達は「創価学会仏」と呼んでくれることもあろう。そんな日を夢見ながら、戸田先生は語って下さった。それが、戸田先生の語った真意ではなかろうか。「創価学会仏」なる言葉は、決して「今ではない」。また「自称するな」である。

本当の「青年・凱歌の年」は、来年(2023年)ではない。努力すれば実現するかもしれない、もう少し先の未来の話であると私は思う。


3. 新たな取組

青年部の育成にも、今こそ、新たな取り組みが必要である。

先に「自信を持てない若者」「経験がない若者」の話をした。
青年の育成には時間が掛かる。
どのように育成すべきなのだろうか。

現在の活動では、男子部幹部会の放映視聴、華陽会総会など、結集に力を入れると言う。また、創価ユースフェスタなるものも開催されると聞く。しかし、これらに参加できるメンバーは限られるだろう。今の結集率は1割程度だと想像する。しかし、この方針で今年末まで、来年一年間やり過ごしても結果は見えている(と私は考える)。「つくべき人を間違えてはいけない」と池田先生は何度も指導された。このような地域幹部、青年部幹部の言うことをまじめに信じて大丈夫だろうか。
現在の青年部の衰退は、およそ20年位前から始まったと認識している。一部のおかしな幹部が、心ない結集を煽った結果でもあろう。メンバーは単なる「結集要員」になり、中身のない会合に参加を強要され、活動家は減少していった(詳細は省く)。
「ぺんぺん草も生えなくなった」と評された地域もある。絶滅地域である。その当時の青年部幹部が、ちょうど現在の壮年婦人の幹部である。

地域の心ある青年部は良く思索して欲しい。この路線で自分の地域の青年が育つのだろうかと。内心は、本音を言えば「無理なんじゃない」と思ってないだろうか。「これでいける」と確信できないものは、多くの場合、失敗する。できると確信していても、失敗することもあるが、始める前から信用できないものに、幾ら時間を費やしても無駄である。

また、ある青年が語ってくれた。
「今の青年は、自信がないんです」
「リスクがあれば、避けてしまいます」
「経験がないから、チャレンジしようとしません」と。

確かに彼の言う通りなのかもしれない。スマホの世界にいれば、安心かもしれない。何でも調べて、分かった気にもなれる。失敗して恥をかくこともない。全てが叶っているのに、敢えて失敗するかもしれない挑戦をする必要などないだろう。
そんな風に考えている青年を、創価ユースフェスタ、会合視聴等で育てられるだろうか。単なる会合参加に過ぎない。どこに智慧を尽くして考えたと言えるのだろうか。慈悲があると言えるのか。どこに信心があると言えるのか。確かに、組織の付き合いだけで、あるいは親に言われて、会館に参加できる人がいたとしても、数は限られる。勿論、そういう手の届く範囲の人を大切にすることも必要だ。しかし、より多くの潜在的なメンバーに光を当てることはできない。どうすればより多くのメンバーに光を当てられるか。どうすれば、一人でも多くのメンバーを成長させられるだろうか。

(1) 「昔、文化祭」「今、ユースフェスタ?」
昔は、文化祭や合唱祭等が地域ごとに開催された。当時、青年部としてそれらを経験した人達が今も活躍しているだろう。非日常の取組で、自身の壁を打ち破り、大きく成長した思い出があると思う。非日常の活動は、人材の基礎体力を増し、境涯を開く良い機会となったことだろう。

しかし、今は、この文化祭などを真似しても駄目だろうと考える。なぜなら、経験不足の幹部が適当に考えた案に従えば、間違いなく失敗する。成功経験のない人達である。選挙でも票を減らし、学会は馬鹿にされ、それでも何も言えず、内弁慶。人は育たず、組織を衰退させてきた人達である。なぜなら、慈悲もなければ智慧もない。道理も語れず、人も納得させられない。人を救った経験も乏しい。そんな人間に人を育てられる訳がない。
そんな彼らが口にするのが「創価ユースフェスタ」である。それが昔の文化祭に相当すると思っているのだろうか。しかし、現状では、一部の青年しか参加できないだろう。
現段階で、この程度の発想しかできない者達がいくら集まっても、新しい取り組みが実現できるとは思えない。もしも、智慧や慈悲があれば、新しい発想が既に検討されているはずである。

もっと「青年の心を掴(つか)む試み」に挑戦する必要がある。

(2) 公明党支援
壮年・婦人、青年部幹部の中には「公明党があるじゃないか」と言うかもしれない。しかし、これを信じてはいけない。多くの青年、内外の青年の信頼を損なうことになる。
もし、本当に公明党支援が善いものなら、やらせてみてもよいだろう。しかし、若者は参加しない。何故なら、公明党は善いことをしようとしてないからだ。
「平和のため」「大衆のため」に動いてないことを既に知っている。不祥事も度重なった。
若者には嗅ぎ分ける力はある。「本当に人々のためになる」「環境のためになる」なら、また「興味のあるもの」なら、真剣に向き合うチャンスとなろう。しかし、今の公明党にそれはない。
大人世代も自信をもって「公明党は素晴らしい」と言えるだろうか。考えてみて欲しい。政権与党になって20年以上経過した。この間、国債発行残高は、350兆から1000兆円超とおよそ3倍になった。いわば国の借金である。年間返済額は25兆円を超える。国家予算の約1/4である。異常事態である。次に年金を考える。「年金100年安心」「現役世代のおよそ半分の支給が保証」されるはずが、支給開始年齢後退。年金45年納付延長案。自助努力。自己資金2000万。また、平和を考える。安全保障政策は後退に次ぐ後退。日米安全保障強化のため、集団的自衛権を容認。他国が新型兵器開発を加速させると、イージスなどのミサイル防衛は不十分と言いだした。「敵地攻撃」「先制攻撃」。「巡航ミサイル調達を検討」と公明党幹部が口にする。他国にミサイルを撃ち込む。しかも攻撃を受ける前に。等々。言っていること、やっていることは、デタラメであり、嘘だらけである。今では、かつての支援者もかろうじて投票しているだけで、本気で公明党を信じている者は激減した。
そんな状況なのに、公明支援などできようもない。青年部を自分達の思い通りにしようとしても、多くの青年は動かない。

(3) 新たな運動を開拓
会合結集も駄目。文化祭も駄目。党支援も駄目。これまでの運動には限界がある。更に、某教団の問題も輪をかける。

そもそも、幹部に慈悲がなければ、人は育たない。人の何倍も何倍も苦労して、「これならいける」「これもいけるかも」と智慧を涌かせ、人と語り、心を動かせる運動を新たに探し出すしかない。心ある青年部の皆さんに、私は大いに期待している。
青年は悩まなければならない。若き日の日記(昭和30年12月12日)「人生は悩まねばならぬ。悩んではじめて、信心もわかる、偉大な人になるのだ」とある。何かを生み出そうとするのだから、悩んで当然。苦労して当然だと考える。そうでないものは偽物である。

今の世代は「良いこと」には敏感だ。善だと思えば賛同するし、決意もする。彼らが行動に移すには、その思いを「運動」に高める必要がある。今は、その段階までに至っていない。よって、創価の青年部の「運動」にはならない。
現状の学会青年部の活動には、魅力がない。新たに何をやればよいかを探す必要がある。このことに青年部自身が、先ず取り組んでみてはどうだろうか。下心を持たず、善いものに関わるべきである。

どうか今までの枠を打ち破り、新たな運動が展開されることを期待している。応援してくれる人達は必ずいる。そして、今なら、まだ学会にもそういう人は必ずいる。沢山はいないが、必ずいる。どうか、探し出して欲しい。運動を成功させ、今生人会の思い出を作って欲しい。


4. 青年を育てる青年、青年を育てる組織

「人を育てる」「青年を育てる」のは簡単ではない。

批判を承知で記すが、私は次のように考えている。

人を育てるのは人である。人を育てるのは組織である。
勿論、自立・自律した人は試行錯誤しながら、自ら学ぶこともできよう。先人の残した智慧を学び、自分一人で成長もできよう。しかし、全ての人ができる訳ではない。それのみで事足れりとするものではないだろう。故に、同志が要る。先輩がいて、師匠が要る。そうして良い組織を作り上げれば、より多くの人が育っていく。

「法華経の智慧」を読んでいて、「学会」が、または「人間」が努めて排すべきものが書かれていると感じたことがある。「権威主義」「官僚主義」「形式主義」である。学会が、あるいは学会の指導者が、この悪弊に陥ると人を不幸にし、組織を破壊する。
一方、この対極は何かを考えてみた。同書には系統立てては書かれていないが、それは、「対話」「寛容」「慈悲」であると考える。2007年出版のウンガー博士との対談「人間主義の旗を――寛容・慈悲・対話」にある。
悪弊の三主義が思想的なものであるのに対し、「対話」「寛容」「慈悲」は実践であり、両者は同列に論じられないものかもしれない。願わくば、今後、各国で行われている「池田大作研究」等でも、取り上げて欲しいテーマでもある。

ここでは、青年に限らず、人材を育成する上で重要だと思うので、このことをもう少し掘り下げてみたい。

「権威主義」「官僚主義」「形式主義」の用語から、受ける印象や特徴を挙げてみる。
「権威主義」の根底にあるものは、「差別意識」である。自分は上、相手は下。自分は優れ、相手は劣る。能力や人間性ではなく、地位と名誉で区別し、自らの権力に執着する。
自らを選ばれたもの(選民)と考え、権力を持った自分の「貴族的」な振舞を当然と考える。閉じた世界にいれば、慢心は積もる。他者を「強制」する力を持つと錯覚した権力者は、他者を自分に「従属」させる。権威を持つ者は、持たざる者を「支配」する。「支配」と「服従」の世界である。

次に、「官僚主義」から受ける印象は、「集団への帰属」である。そこでは、異論を排し、同質の人間だけで組織を運営する。組織に忠誠を誓い、求心力を増すことに専念する。これは、「効率を重視」するため、「同質性を強調」し、「異端者は排除」される。その結果として出来上がるのは「親分子分」の関係である。組織は「階層構造」で「上意下達」である。

更に、「形式主義」とは、感覚的になるが「心がない」ことが特徴であろう。「無慈悲」である。「人間性の欠如」である。人間の血が通わない無味乾燥の世界である。所定の「手続き」を踏みさえすれば、何でも要求を押し通すことが出来る。立場があれば強行できる。「制度の悪用」も横行する。あくまでも、手続きは「原理・原則」でしかないのに、勝手に解釈を変更し、権力者の思い通りに使用される。

以上の特徴だけを列挙してみる。
「差別」「選民」「貴族的」「支配・服従」「強制・従属」。「集団への帰属」「効率性の追求」「同質性の強調」「異端の排除」「親分子分」。「無慈悲」「手続き」「原理・原則」「解釈の悪用」。

これら、三主義に共通した特徴は、「人間性の欠如」「人間性の排除」である。そしてこれが蔓延した組織は必然的に「幹部信仰」「組織信仰」となる。そこには「仏ではない世界」が広がる。いわば「第六天の魔王の所領」である。これらは、学会の目指す世界ではなく、もはや学会とは違う別の宗教である。

故に、池田先生は同書で徹底的にこの悪弊の三主義に批判を加えておられた。

次に、実践論としての「対話」「寛容」「慈悲」に関しても簡単に記しておく。
これらの特徴を記す。
「平等」「自由」「理解」「尊敬」「自発・内発」「多様性」「異文化との交流・理解」「外交的」「友好的」「自立・自律」「教育的」「努力と智慧」「忍耐」等々。
これらは、「善き指導者」あるいは「仏」が備える特質であろう。「人間性」がキーワードである。大聖人も三代会長も「人間性」を備えている。これらは、同時に、「正邪」「善悪」の基準とも言えよう。
将来の「池田大作研究」等では、これらの視点でも研究されることを望みたい。

以上を踏まえて、「青年・凱歌の年」を「人材育成の視点」や「『権威主義』『官僚主義』『形式主義』の戒め」から考えてみるのも興味深い。

「青年○○の年」には、
青年を使い、自分は楽をする幹部が必ず出てくる。「権威主義」である。
青年に光を当てると嘯(うそぶ)き、子分にしようと画策する輩も現れる。「官僚主義」である。
慈悲もない、育成しようとは本当は思っていないのに、テーマに決まったから、青年を利用する。「形式主義」である。
これでは、青年は育たない。

本気になって、「青年を育てよう」「青年に凱歌を上げてもらおう」と願うなら、「対話」「寛容」「慈悲」の実践を貫くしかないと考える。所詮は「人間性」である。「仏」でなければ、人は育たない。

「自分を飾るために青年を使う」のか、逆に、「地道に、粘り強く、朗らかに青年を育てる」のか、両者には雲泥の差がある。

自身と青年部との関係についても少し記しておきたい。
勿論、青年が自分の子供ではない場合がほとんどだろう。また、青年と関わる状況は様々だ。大人(壮婦)の中には、自分の子育てを終えた人もいる。また、現在、自分の子育てに懸命に取り組んでいる人もいる。そのような状況で、他人の子供(青年)を育てようとすれば、更に大変になるだろう。しかし、「もし、創価学会を未来に残したい」なら、「青年を育て、委ね、託す」以外に道はない。我が地域の青年を、我が子と思い、否、我が子以上に大切にする以外にない。

明年のテーマ「青年・凱歌の年」を決めた人物(達)はそう思っていただろうか。
このテーマを聖教新聞で読んだ人達は、そう思って、決意したのだろうか。
私にはそれを知る由もない。

この投稿を読んだ人達は、明年のテーマをどう思っただろうか。
来年も、一日24時間、365日ある。しかし、来年は今の一念で決まる。
誰が知ろうと知るまいと、御本仏を求め近づいて行けば、自らが仏になる。これからも、また挑戦の日々が続く。

「青年・凱歌の年」は、
青年部が勝手に成長する年ではない。
青年部が結果を持ってきてくれる年ではない。
青年部だけではなく、大人世代が成長する必要がある。

「青年・凱歌の年」は自らが決意する年である。
「青年・凱歌の年」は自らが闘う年である。




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