[8580] 題名:責任と賢明
名前:ジョーカー
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投稿日:
2024/02/19(月) 21:23
240d:1a:186:ad00:4cb7:ae96:c479:8a8d(IPv6:so-net-jpnic-jp-20101215) (240d:1a:186:ad00:4cb7:ae96:c479:8a8d)
小樽問答を通し、御本尊や教義変更に関し超法規的というのは、「無責任」「ずる賢い」「トカゲのしっぽキリ」ではないかという指摘を受けたので、検証していきたいと思います。
小樽問答でわかったことは、創価学会の大御本尊の捉え方です。即ち、御書には大御本尊という記述(文証)はないけれども、大御本尊の脇書きに「本門戒壇」と記されており、これこそが文証であると。そしてそれを信じる以外になく、信心なきものにはわからないと。つまり、信心があってこそ大御本尊論は成り立つということでしょう。これが創価学会の公式見解といえます。
一方身延は、本尊雑乱して滅茶苦茶な状態。大御本尊あるなし問題にだけ踏み込み、自分たちの正統性は一切主張できない。そもそも法論になっていない、まことに情けない有様でした。法論は対話とは違うので、妥協点を見つけることではなく、攻めること。自ずと語調も強くなり、自分たちは絶対であり正しいという論調になるのは自然です。池田先生司会の覇気ある呵責も、法論の性質上、あって然るべきものでしょう。
小樽問答の歴史を踏まえると、創価学会の教義変更では、大御本尊は「存在する」が前提になければ、「無責任」「ずる賢い」「トカゲのしっぽキリ」という謗りを免れることはできないでしょう。実際どうだったかと言うと、「そもそも御書に記述なし」とし、学会教学から弘安2年の大御本尊建立を消し去った。つまり、大御本尊は「存在しない」方向にシフトチェンジしたことが窺える。
日興上人が謗法に染まっていった身延と袂を分かち、下山しなくてはならなかったことと同様、創価学会も宗門から離れなくてはならない。だからといって大御本尊を持ち出すようなことは絶対にできないし、今後も和解することは考え難いので、袂を分かつしか選択肢はなくなった。実質的に大御本尊を拝することのない世界において、どのように本尊論を構築していくのか。そのカギとなるのが「信心」でしょう。
正しい信心があってこそ、大御本尊論は成立する。逆に、正しい信心がなければ、大御本尊があっても無益であるといえます。宗門は、広宣流布を現実の上で推進している学会員を、いじめ、迫害し、対話を拒否し、赤誠である正本堂を破壊し、創価の師弟の分断まで行いました。そこに正しい信心は微塵も存在せず、大謗法の咎を免れることは絶対に出来ません。
創価学会が抱えていたのは、大御本尊論は正しいが、大謗法の宗門とは一緒に広宣流布を推進していくことが出来ないというジレンマ。その解消のために、大御本尊から離れ、相貌整っていれば、すべてが等しく本門の本尊とする御本尊論を打ち立てた。本門の本尊の中でも、受持の対象とするのは、仏意仏勅の創価学会が認定したものだけとするとした。
創価学会は、この先、他宗との教義論争はする気がないと思われます。外部は内情を考慮したりしないし、学会員とは根本的に解釈の仕方が異なる。とくに宗門とは折合うことはないでしょう。私の超法規的措置というのは、大御本尊は「存在する」が前提です。その上でジレンマ解消することが世界広布にとって必要不可欠なのであれば、教義を再構築する。当然ではありますが、「過去が間違っていた」とならないように、慎重に推し進めていく。それでも、「無責任」「ずる賢い」と言うのであれば、「責任」とは何か、「賢明」とは何か、ということになってきます。今まで通り何も変えないのが責任なのか、賢明なのか。それとも他の道があるのか。この辺りを明確にしていくことが、建設的(価値)な議論というものでしょう。