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[838]

題名:大白蓮華で紹介! すべての人間の生命を尊重する思想に期待を寄せていた哲学者・岩崎武雄

名前:教学研究会広報部

◇fFCqRFc0cU
MAIL 投稿日: 2022/10/19(水) 05:01 2a01:6340:2:501::21(IPv6:tor-exit-nodes) (2a01:6340:2:501::21)

教学ずいそう (『大白蓮華』1987年7月号)

「科学と哲学そして宗教」
男子部書記長 鈴木 裕

男子部員のA君がある教団の幹部をしている友人を折伏したときの話。A君に教義の非科学性を指摘され、返答があやふやになってきた友人。「ところで君は科学ってどんなものか知っているのか」と逆に質問してきた。

友人「水素原子二つと酸素原子一つで何ができるか」
A君「水ができる」
友人「ところが、水になるのは八〇%で、残りは異物のものができてしまう。水素原子二つと酸素原子一つを掛け合わせればなんでも水になるという
のは間違いないんだ」
"科学なんてそんなものなんだ"とでもいいたげな口振りに、A君は一瞬、返答に詰まってしまったという。が、彼が痛烈な反論にでるのに、そう時間はかからなかった。
「それでは八〇%は水になるが、残り一〇数%は水にならないということを、君は何で知ったんだ」―ーこれには、友人も返す言葉もなく黙ってしまったという。

宗教は科学を軽視してはなるまい。といって、科学に押されてしまう宗教では、もはや現代をリードできない。
近代哲学研究の第一人者として知られる故・岩崎武雄氏が「科学の限界はなにか」「哲学と科学は対立するか」といった問題を自著『哲学のすすめ』の中で取り上げている。
「どこまでも事実がいかにあるかということのみを問題とする科学は、価値の問題についてはなんらの解答をも与えないということです。事実のみを問題とするということは、たしかに科学の長所です。これによって科学は確実な学問として成立したのです」「しかしこの長所はまた同時に科学の限界を示すといわねばなりません。それは真実についての問題以外の問題に対して答えることができないのです」

岩崎氏は、科学は「いかにあるか」という事実を問題にする学問で、「いかにあるべきか」という価値の問題には、消極的だという。
一方、哲学の役目については「人生観は価値の問題です。そして科学がこの価値の問題に解答を与えないとすれば、人生観というものが人間の生きてゆくかぎり、どうしても必要なものある以上、われわれは科学とは異なったものを必要とします」「われわれは、いかに生きるべきかということに関心を持たざるをえないかぎり、哲学にも関心をもたざるをえないのです」

A君の友人のように、軽薄な理由で科学を激視する宗教は論外としても、逆もまた、問題だろう。科学を絶対的に信頼し、すべては科学によって解決
されると考えてしまう人(考え)だ。この両君に対して、岩崎氏の言は、まさに的を射た解答となろう。

三三蔵祈雨事に「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず」(一四六八㌻)と仰せである。
大聖人は現証が他の二証にすぐれて重要なことを明かされている。現証とは、いいかえれば事実だろう。事実は科学である。

戸田第二代会長はこの点について「ある宗教が、その説くところがかならず実証されて、時と所と、人種と環境を問わず、ただ一つの例外なく実証されるならば、その宗教の説く『教え』は、すなわち『法則』であり『真理』である」と述べ、そうした宗教は科学的宗教といえると断言されている。
その宗教とは、いうまでもなく日蓮大聖人の仏法であるが、池田先生は「戸田前会長の『科学が進歩すればするほど日蓮正宗の仏法の正しさが証明されるであろう』とのことばは、もっとも優れた宗教と科学の関係を示すものとして、時とともに輝きを増してゆくことであろう」といわれ、その後『生命を語る』『宇宙と仏法を語る』の対談などを展開、私達に優れた宗教と科学の融合を示してくださっている。

青年教学運動がいよいよ盛んになってきた。各地で俊英が教学の新たな展開を目指して、研鑽を積んでいる。池田先生は、東京のある区の研鑽グループに「百年、二百年後でも通用するものを」と指導。各研鑽グループへの期待は大きい。が、青年教学運動は研鑽グループや執筆者だけのもので、終わらせていいものではない。「一日一ペ
ージでも御書の拝読を」との指導を地道に実践し、なによりも自身の胸中に教学運動を起こしていきたい。

もう一度、岩崎氏の話にもどるが、『哲学のすすめ』の最終章で同氏は、見失われつつある価値の基準にふれ、「ひとりひとりの人間のもつ生命のこのかけがえのなさに目を開き、生命のもつ神秘さにふれるとき、われわれは、人間の生命に絶対的な価値を見だすことができるのではないかと思
ます」と説く。

では、生命を正しくとらえた哲学とは、いったいどこにあるのか。残念ながら、岩崎氏は具体的には述べていない。ともあれ、氏が生命哲学に大きな期待を寄せていたことはたしかだ。

「いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり、遍満三千界無有直身命ととかれて三千大千世界にみてて候財も・いのちには・かへぬ事に候な
り」(白米一俵御書、一五九六㌻)
「いのちと申す物は

大聖人は、人間の生命にまさる宝はないことを、御書の随所で述べられている。しかるに近年、保険金欲しさに子供などを殺すといった事件が相次いでいる。また、自殺も年々増加の傾向にあり生命軽視の風潮は、蔓延の一途をたどっている。いったい、この風潮はどこから生まれたのか。

或る者は「テレビが悪い」、「教育の責任」という者もいよう。また政治や親の責任を追及するむきもある。どれも、的外れではあるまい。しかし、生物学的な意味の「生命尊厳」をいくら訴えても力はない。根本的解決を図るには、生命の哲理を、広く社会に流布させていく以外にないだろう。一人一人の胸中に、消えない確固たる哲学と
しての「生命尊厳」を築くことだ。

生命軽視の社会風潮を変革する戦い──折伏を、本年下半期も堂々と展開していこう。
(すずき ひろし)




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