[8253] 題名:文証限定教義
名前:ジョーカー
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投稿日:
2024/01/27(土) 13:13
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創価学会教学要綱は、私の結論として、「創価学会公式」として世に出すような代物ではなく、学者有志による学問的研究レベルの教義解釈の域を出ていない。学会教学の方向性を、御義口伝、百六箇抄、本因妙抄を省いて構築すること自体に無理があり、整合性が破綻する。文証である新版御書に掲載されているものを蔑ろにすることは、創価学会総体としては受け入れ難く、只の学者の一見解でなければ通らない。
万人を仏にするのが目的であれば、仏道修行というものは誰にでも実践することができるものでなくてはならない。唱題行は万人に可能であるからこそ偉大であり、すべての人を救うことができる。一方、仏法教義に関しては、浅くする必要はない。「久遠元初の自受由報身如来」「人本尊」「一念三千」「因果俱時」「空仮中の三諦」等、難解ではあるが、数学的に思考できれば普通に成り立つ論理である。教えが深いからこそ万人が求め、未来永劫に流布していくことができる。
難解なものをいかにわかり易く伝えていくかが戦いである。そのために必要なのが慈悲と智慧であり、題目を唱えれば、仏(慈悲と智慧)が湧き出でる。その仏の力で広宣流布を進めていくのだ。そして弘教においては、深い法理を理由に入会する人は今まで見たことがない。大抵は折伏する人の「人間性」が決め手となる。教義云々が世界広布推進の妨げになることは、ほとんどないと言ってよい。
ただし、今の創価学会と日蓮正宗の関係において限定するならば、大御本尊論にこだわりすぎる必要がないというのが私の立場である。創価の歴史的観点で観れば、大御本尊論でいくのが当然ではあるが、限定的、超法規的措置としての意味でなら、成り立つと思う。この観点がないと、創価学会は独りよがりの自称・仏意仏勅の団体でしかなくなり、歴史も歪んでいく。
文証を限定した中途半端な教義解釈を、創価学会公式見解とするのは危険極まりない。純・不純問わず、誤った方向に向かえば、苦しむのは会員である。すでに、会員が置き去りの教義の再構築となっており、その証拠に、現場の人間は誰も知らないという事態となっている。「誰も置き去りにしない」を謳うのであれば、具体的に教義の何がどう変わったのか、またその理由を細かく解説しないと嘘である。言葉だけでは理であり、事があってこそ意味がある。
創価学会教学要綱は、広く社会に対して著された書であるならば、内容は、当然内部の人間も知っていなければ話にならない。自宗の教義を、自分自身で購入し、読まなければ理解できないようであれば、民衆仏法ではなくなる。教義は一部の人間の専売特許ではないのだ。細かいことではあるが、こういった一つひとつの状況を観れば、官僚化傾向にあることが窺える。
それでも聖教新聞の体験談等を読めば、創価学会の現場には、まだまだ人間主義が息づいていることがわかる。また、現場のメンバーの多くは、純粋に広宣流布を推進しようと奮闘している。だからこそ、半端な教義を再構築し、現場を困惑させるようなことがあってはならない。文証限定するのであれば、それ相応の説明が必要であろうし、会員が理解・納得できるように進めるのが義務といえる。
現代は、こっそり隠れながらは無理な時代である。ごまかしが利かないからこそ、本物は益々輝き、偽物は淘汰されていく。ある意味、わかり易い時代になってきている。もとより信心に年齢は関係ないが、脳は常にアップデートしていかなくては、忽ちのうちに時代に取り残される。脳のアップデートを意識し、バージョンアップしていく人を「青年」といい、広宣流布推進の要であり、創価の宝なのである。