[6789] 題名:開幕
名前:ジョーカー
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投稿日:
2023/11/12(日) 10:40
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この度、創価学会が「僧宝」と位置づけられ、新たな広宣流布の展開を迎えることとなった。自らが僧宝であるということは、法華の慢の観点でいうならば、それもまたよしと云えましょう。今後、勤行要点の御祈念文である「日興上人に南無し、報恩感謝申し上げます。」も「創価学会に南無し」に変更されていくのか否か、乞うご期待です。
創価学会と他の教団では、一体何が違うのか。結局のところ、教義に関しては優劣をつけることは出来ず、平行線を辿っていく。日蓮大聖人に聞くのが一番早いのだが、それは現実には無理である。日寛上人の「大御本尊論」においては、卓越しており最高峰ですが、創価学会はそのフィールドにはすでに存在しえない。
言うならば、御本尊第一から、「信心第一」へと切り替えたのが創価学会です。すべてを仏意と捉えるならば、正本堂がなくなったのも、信心第一へと転換する布石。この路線であるならば、大誓堂も本来必要ないよねというのが本音ではありますが、こういうことは現場では言わない方がいいでしょう。仏法は活の法門なので、すべてを価値に変え、活かしていけばいいので、それで丸く収まります。
では、信心さえあれば、他教団の正しい御本尊に対して、題目を唱えると功徳があるのか否か。そもそも信心ある学会員が、他教団で題目を唱えるようなことはしない。たとえ功徳があったとしても、唱えないでしょう。信心第一というのは、そういう節操のないことはしないということである。功徳あるないというよりも「気分が悪くなる」が正解だと思われる。
もっと掘り下げていくと、信心とは何かという問いに至る。就中、「正しい信心」とは何かということになる。ここを言語化していかないと、創価学会の正統性を証明することはできない。一先ず教義を横に置き、創価学会を仏意仏勅足らしめているものは一体何なのか。同じ南無妙法蓮華経を唱えている他教団との明確な違いは何なのか。ここを追求していきたい。
これからは、僧宝・創価学会を邪教化させないことがメインとなる。僧宝というのは重責である。創価学会を守るというのと、邪教化させないはイコールである。私の立ち位置は、一信仰者として、創価学会を守る道を探求すること。そのためには、あらゆる角度から思索し、英知を結集していくことが不可欠となるので、微力ながら、少々愚鈍な頭を捻りたい。
日蓮仏法を具体的な振る舞いとして体現すると、人間主義ということになる。人間主義とは、私の中では「納得の対話」と定義している。創価学会は現在、座談会革命を推進しており、「懇談的」「双方向」がテーマである。一方的な話では共感も納得も生まれづらく、結果的に、広宣流布推進につながらないからと推察される。理念だけでなく、実際の人の振る舞いがどうか。これも正しい信心を行じているか否かの基準と云えよう。
もうすぐ、創立100周年への新たな7年がスタートする。盤石なる世界青年学会を構築するのであれば、あらゆる批判に耐えうるものでなければならない。問題と真摯に向き合いごまかさないこと。そして、人間主義を貫き通し、疑問や批判に対し、排除ではなく、納得と共感で応戦すること。僧宝・創価学会の組織革命、否、人間革命の戦いの開幕である。