[6749] 題名:方便現涅槃。而実不滅度。
名前:桃太郎
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投稿日:
2023/11/08(水) 09:26
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法華経 「自我偈」
為度衆生故。方便現涅槃。而実不滅度。常住此説法。我常住於此。以諸神通力。令顛倒衆生。雖近而不見。
<現代語訳>
衆生を度せんが為めの故に 方便もて涅槃を現ず
而も実には滅度せず 常に此に住して法を説とく
我れは常に此に住すれども 諸の神通力を以て
顛倒の衆生をして 近しと雖も見ざらしむ
〔通解〕──(仏は)衆生を救おうとする故に、方便を用いて涅槃のすがたを現ずるのである。しかし、じつは入滅していない。(裟婆世界)に住して法を説いているのである。私はつねにここにいるが、諸の神通力によって、顛倒の衆生に対して、近くにいるけれども見えなくしているのである。
<方便品、寿量品講義より池田先生の指導抜粋>
仏は一切衆生を「吾が子」と見て導く
「顛倒(転倒、逆さま)の衆生」──それは、仏から見れば、まだ分別のつかない子どものようなものです。
たとえば、いたずらっ子が、いつも見守ってくれる親を、うとましく思ったり、不自由に感じたりすることがある。
ところが、いったん、親の姿が見えなくなると、どこに行ったのかと泣き叫び、探し求める。
それと同じように、顛倒の衆生は、仏が入滅して初めて仏のありがたさが分かる。
仏にとっては、一切衆生は皆「吾が子」です。仏は、じつに親のように、子どものことをよく分かって、さまざまな手を尽くす。
諸の方便を用いるその最大の方便が、仏の入滅なのです。
本当は、仏はつねに人々のそばにいて見守っている。「常住此説法(常に此に住して法を説く)」です。
しかし、わざと姿を見えないようにする。
これを「雖近而不見(近しと雖も見ざらしむ)」と言います。
なぜ仏は、わざわざそのようにするのでしょうか。それは、衆生を本来の自己に目覚めさせ、自立させていくために必要だからです。