宿坊の掲示板
★★師弟不二ARCHIVE★★
http://sgi-shiteifuni.com/
下記条件に沿った投稿を確認した際、
1.スパム性の高い内容
2.猥褻性の高い内容
3.個人情報の漏洩性の高い内容
4.不適切な書込は削除人にチェックを依頼
5.同一内容の二重投稿・多重投稿は削除
チェックされた内容は、上記ポリシーに沿い削除を実施します。


名前
Eメール
題名
内容
写真

URL
削除キー 項目の保存

[629]

題名:次回のメインテーマは、思想家・加藤周一の「丁丑公論私記」です(^0^)/

名前:教学研究会広報部

◇fFCqRFc0cU
MAIL 投稿日: 2022/09/22(木) 10:29 2a0c:e300::23(IPv6:nos-oignons) (2a0c:e300::23)

次回のメインテーマは、思想家・加藤周一の「丁丑公論私記」です。これは、福沢諭吉が明治10年(1877年)に書いた「丁丑公論」を手本に、加藤周一が、昭和45年(1970年)当時、日本の言論の自由の状況を論じた「私記」(個人の記録)の意味です。

当時、ドイツに住んでいた加藤周一が日本から送られてくる新聞を読んで、おかしいと感じて、学会系の月刊誌『潮』編集部に送ってきたもので、同誌の1970年8月号に掲載された一文です。
これによって、創価学会・公明党による、いわゆる「言論・出版問題」をめぐる学会・公明バッシングがピッタリとやんだと言われるものです。

明治維新の功により「古今無類の忠臣」とたたえられた西郷隆盛が、征韓論に敗れて政府を去り、1877年、西南戦争を起こした。戦端が開かれるや、マスコミはこぞって西郷を「逆臣」「賊臣」と批判した。そのさまは「西郷に私怨(しえん)あるものか」と思われるほどであった。定見のないマスコミに怒ったのは福沢諭吉。同年、彼は『丁丑(ていちゅう)公論』を著して、あえて西郷の「抵抗の精神」を評価した。

翻(ひるがえ)って、1970年のはじめから、東京の新聞雑誌が、「言論表現の自由」の大義名分を掲げ、公明党のいわゆる「言論抑圧」事件を一斉に攻撃するということがあった。これを見て、加藤周一はおかしいと思ったのである。
(長くなりますが、分かりやすい文章なので、引用します。)

……………………………………………………………………
挙世滔々として、日頃役者や人気歌手の私事の報道に専念してきた週刊雑誌さえも、決然起って、「自由の敵」を糺弾するかの如く、その状あたかも、福沢流にいえば、公明党に「私怨あるか」の如くであった。今批判者のいうところを要約すれば、およそ次のようである。
第一、言論出版の自由は冒すべからず。第二、公明党は圧力を加えて自己に不利な出版を抑えようとした。第三、故に公明党を弾劾すべし。
 第一の前提は、価値判断である。私は大方の論者とその価値判断を等しくする。第二の前提は、事実判断である。私は事実の詳細を知らない。しかし何らかの「圧力」が加えられたという事実はあったろうと思う。またその「圧力」が、刺客を送って著者または出版責任者の身辺を脅すという種類のものではなかったろうと思う(そういうことをしたのは、公明党ではない)。第二の前提についても、私は、大方の論者に反対しない。しかし第三の結論については、私は、それが見当ちがいの甚だしいものだと考えるのである。

その理由は、いうまでもなく、私が公明党を支持するからではない。況や同党との間に個人的なつながりをもつからではない(私は公明党の誰にも会ったことさえない)。この結論に反対する理由は、今日の日本国における「言論表現の自由」の侵害の状況そのものであり、それだけである。

 不幸にして、「言論表現の自由」の侵害、または少くともその圧迫は、わが国において新しいことでもなく、また公明党に限ったことでもない。しかもそれは、一つ二つの小冊子の出版に係ることではなく、まさに大衆報道機関の中枢に係るものであったし、また今もそうであるだろう。

 たとえば、日本放送協会は、時事に係る番組に参加する人物を、あらかじめその政治的立場から選別し、政府与党に対する鋭利な批判を避けようとすることがないか(それはおそらくあるだろう。もしなければ、イギリス・カナダ・西ドイツの公共放送にくらべても、日本の公共放送の著しい「当らず触らず」の調子は、説明しにくいだろう)。民間放送の場合には、広告主(企業)が番組の「政治的偏向」を指摘し、その番組を「おりる」ことがないか(それもおそらくあるだろう。
もしなければ、たとえばアメリカで、最近二代の大統領が歎いたほどの、民間放送の痛烈な政府政策批判が、日本の民間放送にも連日連夜あらわれたはずである)。また大新聞の場合にも、その論調の「偏向」を政府が指摘し、記者の報道の「偏向」を外国の大使館が注意し、論調が一夜にして急変し、記者が社外に去るということがなかったか(聞くところによれば、おそらくそういうこともあったろう)。また殊に教科書の内容について、政府(文部省)が圧力を加え、著者の歴史観の自由な表現を妨げようとすることはなかったか(家永三郎氏のいわゆる「教科書裁判」の記録によれば、おそらくそういうこともあった)。

 そういうことがあったときに、日頃役者や人気歌手の私事の報道に専念してきた週刊雑誌まで、起って、政府・与党・大企業の非を鳴らし、言論の自由の冒すべからざる所以を説いたであろうか。挙世滔々として、政府・与党・大企業の「圧力」を糺弾してやまず、数ヵ月の間、巷に批判の声が満ちたであろうか。決してそうではなかった。放送と大新聞は、今日の世論を作るのに、最も有力な機関であり、教科書は、明日の世論を育てるのに、最も有効な手段であろう。一方に、放送・大新聞・教科書の内容への干渉・圧力があり、他方に、二、三の小冊子の内容への干渉・圧力があるとしよう。今日わが国の言論の自由を脅すこと、前者は後者に百倍するにちがいない。

前者は、政府・与党・大企業の非、後者は一野党の非。前者の百倍の非に沈黙して、後者の百分の一の非を弾劾してやまないのは、何故であるか。「大勢に従」ったジャーナリズムにとって、言論の自由は、つまるところ、口実以上のものではなかったのか。

 福沢は西南の役の後、西郷弾劾を称んで、「官許の讒謗」であるとした。「其有様は恰も官許を得て人を讒謗する者の如し」。官許の批判は、言論の自由をまもるためには、役にたたない。けだし官に有利な言論の自由のない社会は、どこにもないからである。官に不利な言論の自由のどこまで可能であるかによって、その社会における言論の自由は、定る。みずから言論の自由を行使せず、官許の西郷批判に附和雷同することによって、一八七七年の論客は、明治社会の言論の自由を一歩も進めていたのではなかった。
 政府の一〇〇の「圧力」に沈黙し、野党の一の「圧力」を批判してやまない一九七〇年の論客の多くも、また、当事者を除いて、何ら今日の言論の自由を擁護したのではなかったろう。
……………………………………………………………………




Number
Pass
SYSTEM BY せっかく掲示板