[6055] 題名:池田大作全集 22 ※秀吉の朝鮮出兵は、失敗であった。
名前:霞ヶ関リークス
◇F0RzX/K5nI
MAIL
投稿日:
2023/09/28(木) 19:05
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>『 指導者の要件とは何か。その一つは、常に真実を語ることである 』
▼秀吉の視線は、朝鮮半島を越えシナ大陸を越え、遠くスペインにまで注がれていました。
しかし、その年の七月、明の軍が参戦します。翌文禄二(一五九三)年になると日本軍の勢い
も衰えました。そして、その年の四月になると、京城からの撤退が開始され、戦線は膠着します。
しかし、それでも秀吉は、スペインへの威嚇をやめません。文禄二(一五九三)年の秋ごろ、
秀吉は、フィリピン総督にあてて、こういう手紙を送っています。
「今、私の配下の多くの武将たちが、マニラを占領する許可を、私に求めている。
シナに到着したら、ルソンは、とても近く、私の親指の下にあるようなものということになる。
そうなったら、私たちは地理的にも近い関係になるのであるから、永遠に親しく交わりたいもので
ある。
私がそういっていると、スペインに書き送りなさい。スペイン王は、遠くにいるといっても、
私の言うことを、軽視してはならない」。
つまり、“私は、やがてマニラにも攻め入るかもしれない、そのことをスペイン王に伝えて
おきなさい! ”と、威嚇しているのです。
イベリア勢力の側から見ると、日本を“軍事占領する”と大言壮語して、ナメていたら、
いつのまにか自分たちの支配する地域の方が“軍事占領される”
かもしれないという状況になっていたのです。
スペイン国王に対して、フィリピン総督は、タイもカンボジアも、つまり東南アジア
全域をスペインの支配下におくという、計画まで立てているのです。
(『戦国時代と大航海時代』)。
つまり、秀吉の朝鮮出兵は、そのころの東アジアの、いわば“やるかやられるか”という、
きわめて緊迫した国際情勢の中で行われていたわけです。
そのことを、私たちは忘れてはならないでしょう。