[5494] 題名:悪の本質を切る
名前:FT
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投稿日:
2023/08/10(木) 20:01
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また、力ある言論とは、「悪の本質を切る」ものでなくてはならない。
大聖人は、当時、幕府の権力者をはじめ、人びとから「生き仏」と崇められていた極楽寺良観に対して、その本質は、三類の強敵の第三「僣聖増上慢」であると断ぜられた。
つまり聖人のように振る舞いながら、その実、利欲を貪り、人をたぶらかす、〝ニセ聖人〟であると破折されたのだ。このために大聖人を憎んだ良観は、権力者に讒言し、亡きものにしようと暗躍したのである。
文永十二年(一二七五年)の三月、良観の極楽寺から出火し、堂舎がことごとく焼亡した。また、良観が手厚い庇護を受けていた、幕府の御所でも火災が起こった。経文に照らせば、これらの災害の根本原因は、良観らの謗法の教えにあることは明らかである。
火災の詳細を聞かれた大聖人は、極楽寺と御所の炎上から、〝良観房〟を〝両火房〟と揶揄され、「極楽寺焼て地獄寺となりぬ」(御書一一三七㌻)と痛烈に破折されている。
さらに、その火は、現世の国を焼き、やがて日本中の人びとが地獄の炎に焼かれる先兆であると、このような悪侶を用いる人びとに警鐘を鳴らされている。
〝両火房〟のただ一言をもって、この良観の本質、〝ニセ聖人〟の本質を撃たれたのである。それは、単なる悪口や罵倒では決してない。経文を拠り所とし、明快な論理に裏付けられた、容赦のない呵責の弾丸であった。
悪を切らなければ、善が失われてしまう。真実を叫ばなければ、虚偽が蔓延してしまう。正法が隠没し、邪法が支配すれば、不幸になるのは民衆だ。
大聖人の仮借なき舌鋒、言葉の弾丸の数々は、まさに「正法を惜む心の強盛なる」(御書九五七㌻)ゆえであったといえる。
言論によって人間の勝利を打ち立てるのは、決して容易な道程ではない。大聖人の御生涯がそうであったように、ありとあらゆる迫害が広布の途上にはあるだろう。
しかし、それでも「いまだこりず候」(御書一〇五六㌻)と、正義の言論の矢を放ち続けることである。その不屈なる魂の叫びが、人びとの心を揺り動かすのである。
真の言論人とは、不屈の信念の人の異名でなければならない。
<新・人間革命> 第8巻 清流 202頁~204頁