[4586] 題名:学会員イコール信用してはいけない
名前:末端信者
◇
MAIL
投稿日:
2023/05/19(金) 20:37
220.156.194.249.user.e-catv.ne.jp (220.156.194.249)
「法師というものは聖僧といっても、道理にはずれた 異常な嫉妬心が深くて、いやらしいもの」 (紫式部)
『源氏物語』には、嫉妬や欲望による執着のゆえか、死後も浮かばれない坊主らの姿が描かれている。
福沢諭吉は「僧侶論」を展開し、「僧侶は俗より出でて俗よりも俗なり」の言葉で嘆いていた。
さらに「僧侶の貧利(とんり=利益をむさぼること)、不品行(乱れた行動)
あたかも仏門内に仏敵あるがごとし。慨歎(がいたん)にたえざるなり」
僧侶の貪欲、堕落こそ、仏教を破壊する元凶であるということを述べ、近代の先覚者は、聖職者を戒めている。
昔からの花糞坊主、そして4,5,6等の色淫患部の 宗教詐欺師か宗教ゴロみたいな、愚かな信者を骨まで 食い物にする
師敵対 師反逆の腐敗堕落しきった極悪食法餓鬼です。
先生指導(抜粋)です。
『 「正法正義」を守っているかのように取り繕い、権威を維持することに慣れきってしまった彼らには、
謗法を犯したことへの痛みもなければ、反省もなかった。
生き方の根本にあるのは「法」ではなく、自分たちの「保身」であるからだ。
「広宣流布」を捨てて、「保身」が目的となれば、人間は規範を失い、欲望の奴隷となっていく。
彼らの謗法行為と遊蕩とは、表裏をなすものといえよう。
仏法でも与同罪(正法誹謗の人に供養したり、その非を黙認したりすれば、誹謗の者と同じ罪を得ること)を説く。
日蓮大聖人は、菩薩が使命を果たさず、悪と戦わない場合にはどうなるかを、諸御抄で厳しく教えておられる。
――もし菩薩(大乗仏教の実践者)がいて、悪人をかばって罰することができず、
そのことによって悪人の悪を助長し、善人を悩ませ乱れさせ、正法を破壊させれば、この人はじつは菩薩ではない。
(この人は)外面はいつわって(人々を)あなどり、つねにこう言うであろう。
「私は忍辱(侮辱や迫害を耐えしのぶこと)の修行をしているのだ」と。
この人は命が終わって、もろもろの悪人とともに地獄に堕ちるであろう――。
また別の御書では、同じ文を引かれたあと、こう仰せである。
――謗法を責めないでいて成仏を願うことは、火の中に水を求め、水の中に火を尋ねるようなものである。
はかないことである。はかないことである――。
自分たちの悪に従わなければ、それだけで破門、除名──信徒の立場を「切る」ということは、
「勝手に地獄に堕ちろ」ということであり、「勝手に苦しめ」ということであり、「勝手に不幸になれ」ということなのか。
これほどの大悪に、怒らず、呵責しない人間は、日蓮大聖人の門下ではない。牧口先生、戸田先生の門下でもない。
正義を貫く人でもない。あまりにも臆病で、卑怯な、ずるい人間であろう。
牧口先生は、生涯、権威・権力にへつらわれなかった。
権力には「魔性」がある。それにとりつかれると威張り出す。ずるくなる。傲慢になる。他人を利用して自分だけ得をしようとする。
こうした悪い権力、悪い権威とは戦わねばならない。大聖人のごとく。牧口先生のごとく。戸田先生のごとく。
──法主といえども、大聖人の御金言に背いた場合には、その謗法を、呵責し、責め抜かねばならない──
というのが、日興上人の御遺誡である。大聖人の御精神である。
ともあれ、戸田先生は言われていた。
「日蓮大聖人を信ずるというならば、大聖人の仰せ通りに戦わなくてはならない。
それでこそ、大聖人もお喜びになるのである」
「大聖人の仰せ通りに」──この一点が重要だ。広宣流布に戦えば、三障四魔が競い起こる。迫害は必然なのである。 』
如何なる肩書も信用してはいけないが、特に組織の肩書は 絶対に信用してはいけません。
一人一人を、よ?ス桙ュ観察して、時間を掛けて見極めることが基本だと思います。
題目を唱えなければ、我見に陥って判りません。