[4111] 題名:金剛宝器戒
名前:FT
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投稿日:
2023/04/19(水) 06:58
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日蓮大聖人は、『日女御前御返事』の一節に、『此の御本尊全く余所(よそ)に求(もとむ)る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是九識心王真如の都(くしきしんのうしんにょのみやこ)とは申すなり』〈御書 1244p〉。そして『此の御本尊も只信心の二字にをさまれり』〈同ページ〉とあります。
その上で 、器にも様々な器がある。木の器、土や石の器、ガラスや諸金属の器等々。「金剛の器」以外は、みな強い衝撃にあったり、時間の経過によって、割れたり、朽ちたりする。
人間の生命もまた一つの器といえる。世間でも、ある人の度量や資質について、器が大きいとか、小さいとか言うが、仏法では人間の生命は、仏道修行できうる資質をもった「法器(″法″の器)」であるとみる。ゆえに法器を壊す自殺は、罪が大きい。そして一切衆生の生命が、妙法という無上の″宝聚ほうじゅ(宝の集まり)″を内に蔵する「宝器」であると説く。
そして我が生命を、現実のこの人生で、また三世にわたって「金剛宝器」として輝かせるための戒こそ、「金剛宝器戒」である。「金剛宝器戒」については、梵網経等に説かれ、「金剛宝戒」「一心金剛戒」とも言う。伝教大師は、「一心金剛戒体秘決」の中で次のように述べている。「一切衆生の無始の心中に皆性得本有ほんぬの金剛宝戒あり、性得本有の戒の中に本来無作の三身あり(中略)是の性得本有無作の三身を性得本有の金剛宝戒と名づける」と。
大要の意味は、″私ども一切衆生の生命には、本来、もともとそなわっている金剛宝(器)戒がある。その戒には無作の三身如来がある。この、生命に本来そなわる無作の三身を、金剛宝(器)戒と名づける″ということである。つまり、私ども衆生に本来そなわる「仏」の生命こそ、「金剛宝器戒」なのである。末法においては、三大秘法の御本尊を受持しきっていく「信心」の実践が、「金剛宝器戒」となる。
日蓮大聖人は、「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内に豈あに万戒の功徳を納めざらんや」法華経本門の肝心である、この妙法華経は過去・現在・未来すべての諸仏の、あらゆる修行、あらゆる善行の功徳を集めて五字としたものである。この五字の中に、どうしてあらゆる戒の功徳をおさめないことがあろうかと断言しておられる。
「小乗戒」「大乗戒」を修行したあらゆる功徳も、ことごとく御本尊におさまっている。ゆえに、この御本尊を受持することが、そのまま受戒となり、持戒となる。これが「受持即受戒」「受持即持戒」の法理である。受持とは″受け持たもつ″ことである。″受ける″とは心に信じおさめることであり、「信受」である。″持つ″とは「持続」である。
何があっても、妙法をいささかも疑うことなく、広宣流布へ、人類の救済へと自行化他の実践を持続し、貫いていくその中に、自然のうちに「非を防ぎ悪を止める」戒の働きが最高に発揮されていく。そして、その鍛えと錬磨のなかで我が生命は、何ものにも脅おびやかされず、破壊されることのない「金剛宝器」として、光を放ってくる。その「宝器」のなかには、尊き仏界の智と慈悲と福徳が、満々とたたえられ、また生き生きと脈動していく。ただし大聖人は「若し善比丘あつて法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せんは是れ我が弟子真の声聞なり」云云、此の文の中に見壊法者の見と置不呵責の置とを能く能く心腑に染む可きなり、法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし、南岳大師の云く「諸の悪人と倶に地獄に堕ちん」云云、謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし、何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入・失本心故は是なり」とその上で喝破されている。
邪教原田学会、邪宗大石寺を含めた全ての大聖人を裏切り、仏法に違背した輩たちの奥底の命に共通するのは臆病である。謗法を責めれば、魔が紛然と競い起こり難を受ける事が生命の奥底でわかる。だから臆病が出て口を噤む。
臆病は成仏出来ない、そして絶対的幸福にはなれない。大聖人がそう言っている。
だから敢えてこの御文を隠して誤魔化している。