[4070] 題名:善縁 悪縁
名前:末端信者
◇4QGfo5aKTo
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投稿日:
2023/04/16(日) 12:39
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『 「又人をも・わづらはさず我が心もなをしく我とはげみて善根をして候も仏にならぬ事もあり、
いはくよきたねをあしき田にうえぬれば・たねだにもなき上かへりて損となる、
まことの心なれども供養せらるる人だにも・あしければ功徳とならず、かへりて悪道におつる事候。」
(P1486)
「また人をも煩わさず、自分の心も正直で自ら励んで善根をしても仏にならないこともある つまり、
だれにも迷惑をかけていない、正直な生活をし、善根をつむことに励んでいる。
しかし、それでも成仏できないことがある、と。
それは、たとえば、弱い良き種を悪い田に植えると種がダメになる。
そのうえ、かえって自分が損をするようなものである。
たとえ、真心ですることであっても、供養される人が悪ければ功徳とならず、
かえって悪道に堕ちてしまうのである」
この御文は、よく思索しなければならないし、後世への戒めでもある。
信心において、全くこわいものは「悪知識」である。
信心の実践にあっては″いかなる人につくか″、
それによって成仏と不成仏が決まってしまうといっても過言ではない。
本当に広宣流布のためになっているのか、また護法のためになっているのか、その点を大きな基準として″
つくべき人″を決めていかねばならない。
ゆえに、善縁をもつか、悪縁にふれるかが、信心修行における幸、不幸への分岐点となる。 』
宗門の花糞坊主と同じ、組織の人々を食い物にする4.5.6等の色淫患部、全くの邪教となっています。
只々、私利私欲、信心の欠片もありません。テレビを賑わすインチキ宗教屋と同じです。
こんな者に騙され利用されて、お金を巻き上げられることは、大聖人の仏法ではありません。
大聖人の信心は、題目を唱えることしかありません。題目さえ唱えていれば、後は、自然に求道心が湧き、
慈悲心によって、悪を破折するようになります。
「信心とは祈りきることです。どんな時でも題目をあげることです。」
「唱題行が魔を破る智慧と勇気の源泉となるのです。」
「凡夫にとって不借身命とは、恐れなく南無妙法蓮華経と唱え抜くこと」