[3323] 題名:池田先生指導(抜粋)
名前:末端信者
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投稿日:
2023/03/05(日) 07:19
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『 「衆流あつまりて大海となる微塵つもりて須弥山となれり、
日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一渧・一微塵のごとし、
法華経を二人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし
仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ。」(P288)
一人の覚醒に始まり一人が一人の宝塔を開き、そのまた一人が次の一人の宝塔を聞いていく――
この地道にして着実なる民衆次元からの盛り上がりこそ、我々が目指す真実の広宣流布の実像なのであります。
誰が見ていようと、見ていなかろうと、黙々と一人一人の心と心を通わせ、そこに誠意と信頼を交流させゆく行為は、
万人の心をつかむことに通ずるのであります。
恩師は叫ばれた。
「青年よ、一人立て! 二人は必ず立たん、三人はまた続くであろう」と。
いずれの時代にも方軌は同じであります。
「師曠が耳・離婁が眼のやうに聞見させ給へ」
日蓮大聖人は、この故事をとおし、宗教の正邪はもとより、
広く社会の盛衰の兆しを読みとっていく耳、眼、見識を養うよう、うながされているのである。
みずからは正邪を判別する力がないために、権威に寄りかかって、動かされてしまう。
だからこそ、民衆を賢明にする以外にない。
「真偽」「善悪」「正邪」に対して、厳しい眼を持つのが仏法者です。
われら凡夫も、大聖人を信じて南無妙法蓮華経と唱えるとき、わが身の当体に久遠の生命を開くことができるのです。
それが「神通之力」です。
未来が、その正邪の決定をしてくれるであろう。必ずや、証拠が出るであろう。その時に決めよう。
「これからも、何があっても少しも信心が、たゆんではならない。いよいよ強く、仏の敵を責め抜いていきなさい」
(御書1090㌻、通解)
大事なことは本質が光っているかどうかである。本物はどこまでいっても本物であり、偽物はあくまで偽物である。
信心にあっても、人生にあっても、それは同じである。
正法の行者と迫害者と、その正邪の相違は明白である。にもかかわらず、多くの人々が悪の言に惑い、正道を見失う。
正義ぶった巧みな仮面の陰にある、傲れる魔の本性を見抜けない。
それは正法の正しき″実践″の有無にある。
自らが正法を持ち、広宣流布を目指して自行化他の「正行」をなしているか否か。
そこに決定的相違がある。だまされては断じてならない。
正法流布に不惜身命に戦う地涌の勇者の自覚が一念に燃えているか否か――。
また受持する法が邪法であれば、これは論外である。
自ら正法をきちんと受持せずして、他の批判にやっきになる心根の卑しさは、あらためて言うまでもない。
まことに批判は易く、実践は難い。
現代にも、困難を避け、行動せずして他をあげつらうのみの下劣な人間が余りにも多い。
また広宣流布への組織の中にあって、自分は何もせず、言葉巧みに組織を利用し、人々を攪乱するのは、
これまた恐ろしき魔力であることを見ぬいていかねばならない。
正義の人の心は、正義の人のみが知る。苦労している人の心は、自ら苦に徹した人のみが知る。
私どもが″仏の使い″として広布に励む、その心は御本仏がすべて知っておられ、見守ってくださっている。
冥の照覧を信ずるゆえに、誰人が何を言おうと、動ずることも、寂しく思う必要もない。
御本仏に見守られた人生。これ以上、誇り高く、盤石な人生はない。 』