[2887] 題名:悪口罵詈は修羅の生命
名前:明
◇
MAIL
投稿日:
2023/02/06(月) 18:40
2404:7a81:c9c0:d500:cc7e:526:4259:5c84(IPv6:biglobe-jpnic-jp-20160302) (2404:7a81:c9c0:d500:cc7e:526:4259:5c84)
「 [2878]
題名:悪口罵詈は修羅の生命
名前:FT
◇S3OiZExQd2 MAIL 投稿日: 2023/02/05(日) 20:20 p217.net112139217.tokai.or.jp (112.139.217.217)
嫉妬 は正義の誉れだ。大聖人の御金言です。
「石は玉(たま)をふくむ故にくだかれ・鹿は皮肉(ひにく)の故に・殺され・魚(うお)はあぢはひある故に・とらる・すい(翠)は羽ある故にやぶらる・女人は・みめかたちよ(美)ければ必ずねたまる・此(こ)の意(こころ)なるべきか、日蓮は法華経の行者なる故に三種の強敵(ごうてき)あって種種の大難にあへり
(弥源太殿御返事、1226㌻)
(通解)石はその中に玉を含むゆえに砕かれる。鹿は皮や肉のゆえに殺される。魚は美味のゆえに捕らえられる。翡翠(かわせみ)は美しい羽があるゆえに殺される。女性は容姿が美しければ必ずねたまれる。これらと同じことであろうか。日蓮は法華経の行者であるゆえに、三類の強敵があって種々の大難にあったのである。
いつの世も正義は妬(ねた)まれ、迫害される。偉大だからこそ嫉妬されるのだ。
大聖人の直系の誉れ高く、創価の三代の師弟は、猶多怨嫉の大難を勝ち越えてきた。全世界に信頼と友情の道を開いてきた。
我らは進む、御聖訓通りの悪口罵詈を悠然と見下ろして。永遠の勝利の証しを打ち立てるために!!
広宣流布を阻む修羅の生命について、お話ししておきたい。
修羅界は、十界論では下から四番目であり、地獄界、餓鬼界、畜生界とともに「四悪趣」に位置づけられる。
修羅の生命の特徴は、自分よりも優れた人に対する「嫉妬」とあらゆる人を見下し、押え込もうとする「勝他の念」である。大聖人も御書の中で取り上げられているが、天台大師は「魔訶止観」で、修羅の卑しさを、こう表現している。
「常に他人に勝つ事を願い、その心を抑えきれず、人を見下し他者を軽んじ自分だけを尊ぶ。それはまるで、トンビが高く飛んで、下を見おろす姿のようである。それでいて外面は、仁、義、礼、智、信という徳を掲げて表面的で自己満足の低級な善心を起こし、修羅道を行ずるのである。」(御書430ページ通解)すなわち修羅は、内面では「われ尊し」と驕りながら、外面では、徳を備えた人格者のように振る舞う。偽装がうまいのである。その根本は、自分をよく見せようとする見栄であり、他人を見下し、民衆を蔑視する「傲慢」であり、「驕慢」である。ゆえに「だれもが成仏できる」と説く法華経を信じる事ができない。
他人よりも自分が上でないと気がすまない。否、妙法そのものよりも自分が上であるかのように慢心してしまう。
それが広宣流布を阻む悪人たちの本質である。まして「自他ともの幸福のために真剣に闘う」法華経の行者の心など、わかるはずがない。
「観心本尊抄」には「諂曲なるは修羅」(御書241ページ)と仰せである。「諂曲」とは、諂い曲がった心のことである。この「諂い」(へつらい)とは、他人と自分とをくらべ、それによって自分の態度を変え、自分の本心を見せずに従順を装うことである。また修羅は、心が曲がっているため、自分も他人も正しく見ることができず、自分が偉いかのように「錯覚」してしまう。大聖人は、こうも仰せである。「能く大梵天王・帝釈・四天と戦う大阿修羅王有りて禅宗・念仏宗・律宗等の棟梁の心中に付け入って次第に国主国中に遷り入って賢人を失う、是くの如き大悪は梵釈も猶防ぎ難きか何に況んや日本守護の小神をや但地涌千界の大菩薩・釈迦・多宝・諸仏の御加護に非ざれば叶い難きか」(御書141ページ)
大梵天王や帝釈、四天王と戦うことのできる大阿修羅王がいて、禅宗、念仏宗、律宗等の指導者の心の中につけ入り、しだいに国の権力者をはじめ国中の者の心に移り入って、賢人をなき者にしようとする。
このような大悪は、梵天・帝釈でさえも防ぐことはむずかしいであろう。いわんや日本を守護する、力の小さな神など、なおさらである。ただ、千世界を微塵にしたほど数限りなく出現した地涌の大菩薩や、釈迦如来、多宝如来、諸仏の御加護でなければ防げないであろう。
「修羅」がその身に入った、「邪教と権力の結託」に対しては、地涌の菩薩と諸仏の力以外では勝てない。
日寛上人は、「三重秘伝抄」で、大海の中に立っても、海水が膝までしかこないほどの巨大な姿として、修羅を表現されている。経典に、そうあるのである。
「修羅は身長八万四千由旬、四大海の水も膝に過ぎず」(六巻抄16ページ)
それくらい自分が偉いと驕り高ぶっている。自分の実像が見えなくなっているのである。しかし、そのような傲慢な人間は、自分よりも強い者に責められると、小さな小さな本当の姿に縮まって、逃げていく。そのことは、「佐渡御書」で、「おごれる者は必ず強敵に値ておそるる心出来するなり例せば修羅のおごり帝釈にせめられて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し」(御書957ページ)と、きちっと説かれている。」
マハロ―! マハロ―! 馬鹿野郎だ! マハロ―!
その、キンマン、いや、その、キンマンコだよ!