[2792] 題名:今週土曜日、第26回教学研究会(2月4日)の「ご案内」です。
名前:教学研究会広報部
◇csS2pri2nc
MAIL
投稿日:
2023/01/30(月) 13:18
2001:67c:2608::1(IPv6:fr-tetaneutralnet-20160523) (2001:67c:2608::1)
・日時:2月4日(土)午後8時から、zoom会議室で。
・参加申込方法
①教学研究会のグループLINEのメンバーは、当日のzoom会議室の入室情報や資料等は、グループLINEで、お知らせしますので、改めての参加申込は不要です。
②初参加の方は、お手数ですが、当研究会のホームページの参加申し込みフォームから、お申し込みください。
https://kyogaku-labo.com/request
zoom会議室の入室情報や資料等を受け取るために、メールアドレスの記入が必須です。
毎回、冒頭に初参加メンバーによる簡単な自己紹介をお願いしています。よろしくお願いします。また、参加後にグループLINEにご招待しますので、ご参加をお願いします。
③なお、初参加の方やハンドルネームに変更がある方は、今回は○○○で入室します等、事前にメールやLINEでお知らせくださるよう、お願いいたします。
・式次第及び内容等。
レポーター:沖縄の比嘉隆夫さんと波田地の2本立てです。
司会: 東京の女性部メンバーです。
・当日の流れ:
①司会の第一声および自己紹介
②初参加メンバーの簡単な自己紹介
③前回の復習で割愛した「内外相対」の掘り下げから「釈尊・日蓮・学会の教学体系」のプロットを。
④学会歌(「21世紀のマーチ」)
──休憩──
⑤沖縄の比嘉隆夫さんの体験発表
⑥第26回「大聖人の曼荼羅本尊をめぐる諸問題について②」。前回講義できなかった「『大聖人の曼荼羅本尊1~123』の相貌問題」および「大石寺戒壇板本尊の真実」(波田地)
……………………………
③について。
まず、前回、時間の関係で割愛した、「内外相対」(外道と内道の違い)、とりわけキリスト教と仏教の根本的相違はいったい何かということについて掘り下げてみたいと思います。
仏教を他の宗教から明確に分ける旗印として「 三法印(さんぼういん)」「四法印(しほういん)」が説かれます。これは、インドでは、仏教以前のバラモン教(外道)が「常楽我浄」を説いていたので、それを真っ向から否定する「所行無常」「一切皆苦」「諸法無我」「涅槃寂静」の四つの真理のことです。
これを分かりやすくまとめると、①~③となる(④と⑤は、主にキリスト教との違い)かと思います。
①縁起(空)を悟っているか否か
②因果の理法を貫くかどうか
③己心の外に法(実体)を立てるか否か
④原罪・贖罪思想
⑤終末思想(ハルマゲドンの後に神の国が実現する)
これまでも繰り返し述べているように、内道(仏教)とは、釈尊が悟った縁起(空)の法ことです。物事(報い、如是報)は、様々な原因(如是因・如是果)や条件(如是縁)が複雑に絡みあって起きているものであり、一瞬たりとも止まらず変化していく(諸行無常)のであり、固定視・実体視できるものはない(諸法無我)という思想です。
対して、外道はこの縁起の法(空)を知らず、物事を固定視・実体視し、それに執着するところから、苦しみが生まれます(一切皆苦)。
また、処女懐胎とか、復活とか因果の理法を否定したことを説きます。
更に、外道は、己心(自身の生命)の外に、神という最高の価値ある実体を立て、神が万物を創造したと説きます。では、この神はどういう因果で存在するのかと問うと、神はもともと存在したとして、因果を否定します。
また、絶対的他者である神と比べれば、自身の生命も価値のない存在であり、特に原罪思想とキリストの贖罪による救いを説く統一教会はじめキリスト教系宗教では、信者の自己肯定感は最低のところから出発します。
もう1つのキリスト教の仏教との違いは、ヨハネの黙示録等に出てくるハルマゲドンの終末思想を持っているところではないかと思います。
このような点について改めて整理するとともに、年始にお送りした「釈尊・日蓮・創価の教学体系」(仮称)のプロット(未完成)の改訂増補版をお送りしますので、それを解説したいと思います。
五重の相対の最後の「種脱相対」によって明らかにされる「本因妙」思想の革命的意義について、お話ししたいと思います。
⑥について。
大聖人の曼荼羅本尊については、昔から、法本尊・仏(人)本尊の問題がありました。曼荼羅本尊自体を人法一箇の本尊とみて、仏像造立を否定する大石寺系に対して、曼荼羅本尊を法本尊としか見ない人々にとっては、曼荼羅は単なる“設計図"に過ぎず、一尊四士、一搭両尊四士など、仏像を並べて曼荼羅を立体的に表現しようとしました。
2014年に会則の教義条項を改定した創価学会も、曼荼羅本尊は、「宇宙と生命の根本の法」を書き表わした図像(法本尊)としか考えておらず、日蓮本仏を否定し、釈迦本仏を唱える方向に向かっており、仏像本尊を許容しかねない雲行きです。
また、曼荼羅本尊自体も、相貌が年代によって大きく変わっており、その変化が何を意味するのかが一つの問題になっています。お送りした資料「御本尊集(1~123)」は図顕された年代順に並んでいるので、大聖人の曼荼羅本尊の相貌がどのように変わってきたかを俯瞰できます。この相貌の変化の問題を詳細に調べ上げ、その意味についての仮説を発表したのが、もう一つの資料「松本佐一郎・富士門徒の沿革と教義(抜粋)」です。この本を手掛かりに、1~123の曼荼羅本尊を見ていきたいと思います。
さらに、大石寺が生身の大聖人と拝するいわゆる戒壇板本尊の真偽問題についても、三つ目の資料・金原さんの「大石寺戒壇板本尊の真実(エッセンス)」をもとに、その真実を究明したいと思います。
毎回、充実した内容になっています。是非とも新しいご友人、お知り合いの方々を伴って、ご参加くださいますよう、お願いいたします。