[2022]
松野殿御返事(十四誹謗抄)
アンチ諸君は、この御書をよくよく拝していきなさい。
松野殿からの手紙に「法華経を受持して後、退転することなく、方便品の十如是と寿量品の自我偈を読誦し、題目を唱えています。しかし、その題目も、聖人が唱えられる題目の功徳と、われわれが唱える題目の功徳とでは、どれほどの相違があるのでしょうか」との御質問があった。
そこで、その質問にお答えするのだが、題目の功徳には、まったく勝劣はない。その理由は、愚者が持っている金も、智者の持っている金も、また、愚者がともす火も、智者がともす火も、何ら差別、相違がないのと同じ道理である。但しこの法華経の心にそむいて題目を唱えた場合には、差別はあるのである。
<中略>
不軽菩薩は、法華経を持っていない者でさえも、もしかしたら持つかもしれない、本来仏性があるとして、このように敬い、礼拝したのである。まして、法華経を持っている、在家出家の者においては当然、尊敬しなければならない。
法華経第四の巻の法師品第十には「もし在家の身であれ、あるいは出家であれ、法華経を持ち、説く者に対して、一言でもそしるならば、その罪報の多いことは、釈迦仏を一劫の間、面と向かってそしった罪よりも重い罪をうける」と、説かれている。
あるいは普賢菩薩勧発品第二十八に「もし事実にしても、あるいは事実でないにしても、法華経を持つ者の悪口をいえば、その罪は重い」とも説かれている。これらの経文に照らして考え合わせるならば、かりにも法華経を持つ者を、互いに、そしってはならないのである。その理由は、法華経を持つ者は、必ず、みな仏なのであって、仏をそしれば罪をうけるのは、当然だからである。
このように心得て唱える題目の功徳は、仏の唱える功徳と等しいのである。
日蓮宗身延派、日顕宗、顕正会、立正佼成会、その他もろもろの日蓮系の邪宗派がどんなに題目を上げようと、一切功徳はない。
それは信心の血脈がないからです。日々広宣流布に励む、仏意仏勅の創価学会員を見下しバカにしながら唱える題目に功徳があるわけがない。
「日蓮を用ひぬるともあしく うやま 敬 はゞ国亡ぶべし」」
※常日頃、池田先生は御書をしっかり学べと指導されていた。それは悪知識を見破り、惑わされずに正しい信心を貫くためにはとても重要な事だからです。