[1865]
突然ですが、あなたは
武井武雄という人物をご存知でしょうか?
彼は、1900年代に活躍した画家で、
特に「童話の挿絵」という
当時は軽視されていたジャンルで
多大な貢献を成し遂げた人物です。
武井氏のおもしろい本を手に入れました。
それが、『戦後気侭画帳』(筑摩書房)
この本はタイトルの通り、
武井氏がきままに書き溜めた
絵日記のようなものをまとめた本で、
戦中・戦後期を生きた
武井氏個人の感情が詰め込まれた本になっています。
例えば、マッカーサーが
厚木に降り立つ前の日記には、
「ああ、なんたる惨景ぞや
明日、厚木着の空輸部隊を第一着として
保安占領部隊の本土進駐がはじまる」
と、悔しさを滲ませた文章が書かれていたり、
終戦間もない8月末ごろの日記には、
「出征兵が解体により
続々と家庭に帰ってくる。
被服や毛布を貰ってくるものもあれば、
はだしに草履ばきの者もある。
いずれもこっそりと
かくれるように村へ帰る。
征くときの華やかさと引き換えに
なんと気の毒なことだろうか。
これが皇軍将兵の今の姿である。
光輝あるの言葉は全く影を潜め、
忍び難きを忍びの言葉は
彼らにとって最も痛烈過酷である。
そして思う。
日露戦争当時の、
かの感激に満ちた凱旋の情景を」
といった、痛々しい帰還兵の様子が
描かれていたりします。
東條英機の印象
そして私がこの本の中で
特に興味深いと感じたのが、
武田氏が抱く、東條英機への印象です。
登場については9月16日付の日記に、
かなり長文で書かれてあり、要約すると、
・東條大将のことはもとより
あまりよく思っていなかったが、
戦争犯罪人になってからは
国民に、奇妙な人だと思われ始めた。
・立派に自決する皇民が多い中、
自決に失敗して米兵に助けられた。
その上、配給を食べてまで
生きながらえようとしていることは恥だ。
・あの様子(情けないことをしている)だから
裁判で変なことを言わないか心配だ。
という内容になります。
どうやら東條は、戦況が傾き始めてから
国民にあまり人気ではなく、
さらに自決失敗の報道によって
より一層、株を下げていたようです。
食い違う人物像
一方で、東條に関しては
武井氏の記したものとはあまりにも違う、
東條英機像が記されている本があります。
その本が、『平和の発見』(オクターブ)
これは、東京裁判で死刑判決が下った
東條らA級戦犯の教誨師として
処刑当日まで、実際に面会を行っていた
花山信勝という人物が書き記したもので、
東條英機の遺言までも収録しています。
ここに記される内容によれば
東條英機は遺言で、
・戦争を押し進め、結果敗戦に
導いてしまったことを心から国民に詫びる。
(ただし、自衛のための戦争だったので、
外国に有罪を下されるのは納得できない)
・国民のため、日本の未来のためなら、
自分達が処刑にされることも必要だと感じられる。
・(自分の処刑後)日本の未来のために、
青少年には立派な教育を受けられるようにしてほしい。
などと書き遺すほど、非常に献身的で
日本を想う人物だったようなのです。
著者によって、ここまで印象が食い違うとは…
一体、どちらが本当の東條英機像なのでしょうか。
GHQの抹消工作
東條らA級戦犯の処刑は
1948年12月23日に行われました。
処刑が終われば普通、遺族の元に、
遺骨や遺書、遺品などが届けられるのですが、
GHQはそれを許しませんでした。
遺骨は回収すら許さず、前述の遺書も、
検閲のために回収された後、
返還要請中に焼却処分されたのです。
(そのため、処刑前に東條が読み上げた
遺書を花山氏が書き取ったものが、
書籍内で公開されている遺書になります)
さらに、当時はGHQによって
「プレスコード」という
報道規制がかけられていたこともあり、
戦犯らの印象を良くするような
ニュースが流せなかったようです。
ですので、もしかすると、
花山氏ら、実際に対面した人物が
好印象を抱いていたのに対して、
武田氏ら一般国民が
東條の悪印象を抱き続けていたのは、
一部の情報がシャットアウト
されていたからなのかもしれません。
年の瀬ですが
お身体に気をつけてお過ごしください。