宿坊の掲示板
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[14378]

題名:12月度・第60回教学研究会のご案内です。(続き)

名前:教学研究会広報部

◇fFCqRFc0cU
MAIL 投稿日: 2025/11/17(月) 13:06 2a0b:f4c2:2::37(IPv6:) (2a0b:f4c2:2::37)

①真蹟が現存するか否か、真蹟断片が現存するか否か、直弟子の写本が現存するか否か、これらはすべて偶然によるものであるから、本来、すべての写本について文献考証をする必要がある。真蹟現存遺文(と真蹟曾存遺文、真蹟断片現存遺文、さらに直弟写本遺文)だけを用いて、日蓮の思想を考察すればよいという「信」に立脚した宗学に対して、それ以外の写本遺文の中にも日蓮の真撰遺文があるのではないか、と「疑」から出発するのが思想史研究である。真蹟が現存していないからという理由によって、それらを排除して安易な祖師研究をしている教団は、仏教教団の中で日蓮教団だけであるという事実を真摯に考えるべきであろう。
たとえば、捜査員が真実を見つけるために、懐疑を用いて捜査にあたるとする。その場合、アリバイのある者(真蹟が現存するもの)は、とりあえず捜査の対象からはずす。しかし、犯人がアリバイ工作をしていることも考えなければならない。アリバイのない者は全員、犯人の可能性がある(疑書)ので捜査の対象になるが、アリバイがない者がすべて犯人である(偽書)とは限らない。捜査に当たっては、先入観(主観)を持たないことが大切であるが、何も考えずに手あたり次第捜査しても(客体)、徒労に終わる蓋然性が高い。したがって、必ず犯人の目ぼし(仮説)を立てて(主体)、その仮説を実証するために状況証拠を積みあげていくこと(客観)が重要である。筆者が、日蓮の真実を探求するためは、「主体的かつ客観的に」と主張しているのは、そういう意味である。

②立正大学や日蓮正宗の宗学研究は、日蓮遺文の真偽考証をしないが、思想史学の研究においては、遺文の真偽考証をするので、その場合、より懐疑主義の立場に立った研究者の主体性と、より護教主義に立った研究者の主体性が対峙することになる。筆者は、遺文の真偽考証について護教主義の立場に立っている。懐疑主義の立場に立てば、「真撰たることを論証できない遺文は用いない」すなわち「疑わしきは罰する」ということになるか、護教主義に立てば、「偽撰たることを論証できない遺文は用うる」すなわち「疑わしきは罰せず」ということになる。後世の偽作遺文を日蓮の真撰遣文の中に混在させてはいけない、というのも懐疑主義者の主体性であるならば、日蓮の真撰遺文を冤罪によって排除してはならない、というのも護教主義者の主体性である。どちらの仏教思想史観、どちらの日蓮教学観がより真実に近いか、それはオープンな議論を通じて明らかにしていくしかないであろう。

③浅井(円道)氏の論考で問題なのは、「日蓮遺文には真如随縁論は全く認められない」という結論が先にあることである。『当体義抄』『日女御前御返事』『立正観抄』は真偽未決である、と言われるのであれば、本来、この三書については真偽の可能性が五分五分ということになる。ところが、「確かな御書には真如論に言及したものはない」という理由によって、この三書の真偽の考証をせずに、実質的には三書を偽書と見なして「日蓮遺文には真如随縁論は全く認められない」という結論が提示されている。このように容易に論を運ぶ手法は、現代の学者がよく使うところであるが、筆者はそのような手法に重大な欠陥を指摘せざるをえない。もしこれら三書のうち、一書でも真書だったら、浅井氏の「日蓮遺文には真如随縁論は全く認め認められない」という結論が成立しなくなってしまうからである。
 日蓮教学の理解については、筆者は基本的に浅井氏の見解に同意する。ただし、浅井氏が「真如随縁論は宗祖には皆無であった」と言われることについては同意することができない。なぜなら筆者は、『当体義抄』『日女御前御返事』『立正観抄』の三書を目蓮の真撰と考えているからである。(中略)
山口晃一氏は、『立正観抄』の真偽をめぐる、池田令道氏と筆者との論争を評して、

花野先生の発表された所論に全面的に賛同します。これは、昭和三年に浅井要麟先生が疑義を出されてから始まりました。最近になり身延三世日進上人の直筆の「写本」と確認され、宮崎英修先生が「真撰説」を昭和四七年に表明しました。昭和六一年には、浅井円道先生が「真撰とみる外ない」と両大家がいわれていました。浅井先生は内容から判断しての偽疑説でした。証拠が出たのです。日進上人の写本という事実のまえに、あえなく自説を撤回されたのです。写本があったからよかったのです。「みる外ない」との浅井先生の発言に苦渋のようすか強く感じられます。でも、身延山にさいわい日進上人の写本があったからよかったのです。もし、存在していなければ現代学者によって、大聖人の『立正観抄』という重大な御遺文が、この世から抹殺されたかもしれないのです。

と述べている。

花野氏は、「このように容易に論を運ぶ手法は、現代の学者がよく使うところである」と述べているが、この手法こそ、まさに宮田幸一氏や『教学要綱』、男子部教学室らが用いる詐術である。

彼ら曰く
・「一大秘法」を「本門の本尊」とする解釈は、御書にはない
・日蓮大聖人は釈尊を超越した根源仏であると主張するが、大聖人の御書や日興上人の著作に基づいたものではない
・大聖人は、自身を上行菩薩であると明言されてはいない

等々。これらが、勝手な思い込み、まず結論ありきの手法であることは、これまで詳しく述べてきたことであるが、改めて、破折のポイントをまとめておきたいと思います。

以上です。




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