[13930] 題名:続き
名前:FT
◇S3OiZExQd2
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投稿日:
2025/09/26(金) 07:10
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種種御振舞御書にいわく「日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信(かげのぶ)、法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と平左衛門尉・守殿(こうどの)ましまさずんば、争(いかで)か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ」(九一七㌻)と。
さらに、あのように大聖人を迫害した北条執権に対しても「願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん」(五〇九㌻)とまでおおせられたのであった。これこそ、御本仏の大慈悲ではないか。
われわれの折伏弘教の活動も、あくまでもこの仏法の精神、大聖人のお振舞いを手本としているのである。だが、貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)の三毒充満し、利己の人のみ多き社会にあっては、人びとのために尽くしていこうという純粋な行為がそのまま受け止められないのである。
折伏弘教を行ずれば、個人においても、教団に対しても三障四魔、三類の強敵が競い起こることは必定(ひつじょう)である。
大聖人は開目抄にいわく「日本国に此れをしれる者は、但(ただ)日蓮一人なり。これを一言も申出(もうしいだ)すならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来(きた)るべし。いはずば慈悲なきににたりと思惟(しゆい)するに、法華経・涅槃経等に此の二辺を合せ見るに、いはずば今生(こんじょう)は事なくとも、後生(ごしょう)は必ず無間地獄に堕つべし。いうならば三障四魔必ず競い起るべしとしりぬ。二辺の中にはいうべし。王難等出来(しゅったい)の時は退転すべくば一度に思ひ止(とど)まるべしと、且(しばら)くやす(休)らいし程に、宝塔品の六難九易これなり」(二〇〇㌻)と。
この御文は、いっさいの不幸の原因は、根本的には低級な思想、宗教にある。これを知っているのは、日蓮大聖人ただ一人である。ゆえに、これをいわなければ無慈悲となり、自分も無間地獄の大罰をうけるであろう。いえばかならず魔が競い起こって大迫害を加えられるであろう。この二つの板ばさみのなかにあって、ついに、どんなに難があってもいわなければならない、と大聖人は決意された、と仰せなのである。
されば、われわれも、あらゆる難や妨害は覚悟のうえで、日蓮大聖人の弟子として、広宣流布の実現はどうしてもなさなければならない使命である。
なお、折伏弘教の姿勢について、法華経の結経である普賢経には「心根(しんこん)は猿猴(おんこう)の如くにして 暫(しばら)くも停(とど)まる時有ること無し 若(も)し折伏せんと欲せば 当(まさ)に勤めて大乗を誦し 仏の大覚身 力無畏(りきむい)の成ずる所を念じたてまつるべし」(『妙法蓮華経並開結』七二三㌻ 創価学会刊)と説かれている。文底から読めば「折伏をしようと思ったなら、まず自分の心を折伏せよ、そのためには題目を唱えよ」という意味になる。たしかに、唱題に励んで、まずわが凡夫の迷心を折伏しなかったならば、とても善へ導く化他の折伏という行動は起こせないし、自己の真心というものも涌現できないのである。
また、折伏行は、けっしてやさしい行為ではなく、とくに末法においては難事中の難事であると、諸御書に教えられている。宝塔品の六難九易とは、末法において法華経をたもち、折伏することがいかに大変なことであるかを説かれたもので、次のとおりである。
「諸(もろもろ)の善男子(ぜんなんし)よ 各(おの)おの諦(あき)らかに思惟(しゆい)せよ 此(こ)れは為(こ)れ難事なり 宣(よろ)しく大願を発(おこ)すべし
諸余(しょよ)の経典は 数(かず)恒沙(ごうしゃ)の如(ごと)し 此(こ)れ等を説くと雖(いえど)も 未だ難(かた)しと為(な)すに足らず
若(も)し須弥(しゅみ)を接(と)って 他方の 無数(むしゅ)の仏土に擲(な)げ置かんも 亦(ま)た未だ難しと為(な)さず
若し足の指を以て 大千界(だいせんかい)を動かし 遠く他国に擲(な)げんも 亦(ま)た未だ難しと為さず
若し有頂(うちょう)に立って 衆(しゅ)の為めに 無量の余経を演説せんも 亦た未だ難しと為さず
若し仏の滅度して 悪世の中に於いて 能(よ)く此の経を説かば 是(こ)れは則(すなわ)ち難しと為す
仮使(たと)い人(ひと)有って 手に虚空(こくう)を把(と)って 以て遊行(ゆぎょう)すとも 亦た未だ難しと為さず
我が滅後に於いて 若しは自らも書き持(たも)ち 若しは人をしても書かしめば 是れは則ち難しと為す
若し大地(だいじ)を以て 足の甲(つめ)の上に置いて 梵天に昇らんも 亦た未だ難しと為さず
仏の滅度の後(のち)に 悪世(あくせ)の中に於いて 暫(しばら)くも此の経を読まば 是れは則ち難しと為す
仮使(たと)い劫焼(こうしょう)に 乾(かわ)ける草を担(にな)い負(お)いて 中に入(い)って焼けざらんも 亦た未だ難しとせず
我が滅度の後に 若し此の経を持(たも)って 一人(ひとり)の為(た)めにも説かば 是れは則ち難しと為す
若し八万四千の法蔵 十二部経を持(たも)って 人の為めに演説して 諸(もろもろ)の聴(き)かん者をして 六神通(ろくじんつう)を得(え)しめんも 能(よ)く是(かく)の如(ごと)くすと雖(いえど)も 亦た未だ難しと為さず
我が滅後に於いて 此の経を聴受(ちょうじゅ)して 其(そ)の義趣(ぎしゅ)を問わば 是れは則ち難しと為す
若し人は法を説いて 千万億 無量無数(むりょうむしゅ) 恒沙(ごうしゃ)の衆生をして 阿羅漢(あらかん)を得(え) 六神通を具(ぐ)せしめんも 是(こ)の益(やく)有りと雖(いえど)も 亦た未だ難しと為さず
我が滅後に於いて 若し能く 斯(かく)の如き経典を奉持(ぶじ)せば 是れは則ち難しと為す」(『妙法蓮華経並開結』三九〇㌻ 創価学会刊)
すなわち、この経文においては六つの難事と九つの易行とを掲げ、末法における折伏行が大変であることを教えられている。その六難とは、①広説此経難(こうせつしきょうなん)(悪世のなかで法華経を説く)②書持此経難(しょじしきょうなん)(法華経を書き人に書かせる)③暫読此経難(ざんどくしきょうなん)(悪世のなかで、暫(しばら)くの間でも法華経を読む)④少説此経難(しょうせつしきょうなん)(一人のためにも法華経を説く)⑤聴受此経難(ちょうじゅしきょうなん)(法華経を聴受してその義趣を質問する)⑥受持此経難(じゅじしきょうなん)(法華経をよく受持する)で、九易とは、①余経説法易(よきょうせっぽうい)(法華経以外の無数の経を説く)②須弥擲置易(しゅみちゃくちい)(須弥山をとって他方の無数の仏土に擲(な)げ置く)③世界足擲易(せかいそくちゃくい)(足の指で大千世界を動かして遠くの他国に擲(な)げる)④有頂説法易(うちょうせっぽうい)(有頂天に立って無量の余経を説法する)⑤把空遊行易(はくうゆぎょうい)(手に虚空・大空を把(と)って遊行する)⑥足地昇天易(そくじしょうてんい)(大地を足の甲の上に置いて梵天に昇る)⑦大火不焼易(だいかふしょうい)(枯草を負って大火に入っても焼けない)⑧広説得通易(こうせつとくつうい)(八万四千の法門を演説して聴者に六神通を得させる)⑨大衆羅漢易(だいしゅらかんい)(無量の衆生に阿羅漢位を得させて六神通をそなえさせる)である。
この九易のうち、どれ一つを取り上げても、けっしてできうることではないが、折伏行はそれ以上にむずかしいというのである。これほどの難事行であるゆえ、釈尊は薬王、弥勒、観音等の迹化の菩薩方には末法の化導を付嘱せず、日蓮大聖人を上首とする本化地涌の菩薩を大地より召し出して、付嘱されたのである。
大聖人は曾谷殿御返事に「此法門を日蓮申す故に、忠言耳に逆(さから)う道理なるが故に、流罪せられ命にも及びしなり。然(しかれ)どもいまだこりず候」(一〇五六㌻)とおおせである。折伏するわれわれは、謗法の者の迷蒙(めいもう)を開き、仏果を得させようと努力するのであるが、折伏されるほうは、そうはとらず「忠言耳に逆う」のである。だが、先の御文の「いまだこりず候」こそ、われわれの根本精神なのである。広宣流布、世界公布の達成まで、われわれは悪口をいわれようが、迫害されようが「いまだこりず候」と莞爾(かんじ)として折伏行にいそしんでいかなければならない。
〈追記 莞爾(かんじ)とは、にっこりと笑うさま。ほほえむさま〉
私どもが、最大の善意によって立ち、誠実の二字をもって社会に対し、友好の心をもって隣人に接したとしても、活動が容易に進んだり、広宣流布が無難に完成したりするようなものではけっしてない、ということを銘記しておきたい。
しかし、仏法は厳正なる因果律のうえの至極の真理であり、至善の法則であるがゆえに、「仏法と申すは道理なり」(一一六九㌻)、「理として顕れざるなきなり」(観心本尊抄文段)とおおせのように、また、大聖人ご自身、国主諌暁(かんぎょう)への誤解と流罪とを幕府に反省せしめられた現証のごとく、善はかならず勝利をおさめることもまた、明らかであると確信していきたい。