宿坊の掲示板
★★師弟不二ARCHIVE★★
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[13929]

題名:霞ヶ関リークスさん

名前:FT

◇S3OiZExQd2
MAIL 投稿日: 2025/09/26(金) 07:03 p027.net182021176.tokai.or.jp (182.21.176.27)

貴方の言っている大聖人の御書が偽書と言う理由が全て間違ってますね。

         立正安国論

其(そ)の上、涅槃経に云(いわ)く「若(も)し善比丘(ぜんびく)あって、法を壊(や)ぶる者を見て、置いて呵責(かしゃく)し駈遣(くけん)し挙処(こしょ)せずんば、当(まさ)に知るべし、是(こ)の人は仏法の中の怨(あだ)なり。若(も)し能(よ)く駈遣し呵責し挙処せば、是れ我が弟子、真(しん)の声聞(しょうもん)なり」と。余(よ)、善比丘の身為(た)らずと雖(いえど)も「仏法中怨(ぶっぽうちゅうおん)」の責(せめ)を遁(のが)れんが為(ため)に、唯(ただ)大綱(たいこう)を撮(と)つて粗(ほぼ)一端(いったん)を示す。

この章は「仏法の衰微を見て、心情の哀惜(あいせき)を起さざらんや」と前章に述べられたのに加えて、さらに涅槃経の文を引いて、法然をはじめとする邪義を破折せねばならない理由を説き示されている。
 この経文は、仏法が滅び、民衆が不幸に陥るのを防ぐための原則を教えている。すなわち、仏法を破る邪説を立てた者を捨てておくことは仏法中の怨であり、仏法を破る邪説の者を責めるものは、真の仏弟子である。ゆえに、仏法を破るものに対しては果敢に折伏を行ぜよということである。
 仏法を滅ぼすものは、外部から権力等によって寺や搭を破壊する者よりも、内部にあって、仏法に名をかりた邪説を立てる者である。師子身中の虫とはこれである。ゆえに、仏がもっとも厳しく戒(いまし)められたのは、仏教の中において、仏教を乱す者、すなわち謗法であった。その原理は、仏法以外の団体、社会、また個人の生命についてもあてはまる。外部より殺される人間より、自己の不摂生、不注意、病気等で死ぬ人間が圧倒的に多いことも、この原理といえよう。したがって、また、法を破る者を見て放置するならば、その放置した者は重罪を犯したと同じ結果になるのである。
 日蓮大聖人は諸御書において、謗法の者や謗法の行為そのものを堅く戒められ、謗法を責めなければ、成仏することはおろか、大罰を受けると教えられている。
 阿仏房尼御前御返事にいわく「少しも謗法不信のとが候はば、無間大城疑いなかるべし」(一三〇八㌻)と。これは、おのおのの心に巣食う謗法不信を戒められた文である。
 さらに曾谷殿御返事には、涅槃経のいまの文を引かれて「此の文の中に見壊法者(けんねほうしゃ)の見(けん)と、置不呵責(ちふかしゃく)の置(ち)とを、能(よ)く能く心腑(しんぷ)に染(そ)む可(べ)きなり。法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし。南岳大師の云く『諸の悪人と倶(とも)に地獄に堕ちん』云云。謗法を責めずして成仏を願はば、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなし・はかなし」(一〇五六㌻)とおおせである。すなわち、謗法を見ながらこれを責めなければ、自分は御本尊を拝んでいても、謗法の者と同じく無間地獄に堕ちるのである。
 しかしながら、だからといって、非常識な行動をとることをすすめるのではない。道を歩いて、謗法の者と行き会ったからといって、見知らぬ人を折伏しても、かえって、その非常識さのために仏法に傷をつけることになる。あくまでも身近で、互いに知っている人を、一対一の対話で、また座談会等の場で、諄々(じゅんじゅん)と話し、納得させることが肝要である。
 開目抄に涅槃経の文をひいていわく「慈(じ)無くして詐(いつわ)り親(した)しむは是れ彼が怨なり。……彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」(二三六㌻)と。
 折伏弘教は慈悲の行為である。「彼が為に悪を除く」の文のごとく、相手の心に巣くう悪を断ち、その人を根底より救いきる厳愛の振舞いである。
 現今の社会には、あまりにも慈悲の欠如(けつじょ)が著しい。利己の人のみ充満し、もっとも民衆の幸福を願わなければならないはずの指導者ですら、おのれの欲望や野心を満たすことばかり考えているではないか。
 互いに憎しみあい、嫉妬しあいながら、それでいて、言葉だけ和(やわ)らげてお世辞を言い、甘言で相手の心に取り入ろうとする。しかも心のなかは、貪欲に満ち満ち、他人の幸福など、少しも考えないのである。これ「慈(じ)無くして詐(いつわ)り親(した)しむ」姿である。
 このような、欺瞞のうずまく社会にあって、慈悲に立脚して、心の底から真実を主張してやまぬ折伏こそ、仏法の精神に適(かな)ったものであり、かつ時代をリードしていく、最高善の振舞いなのである。
 まことに、折伏弘教こそ民主主義の先駆をなすものであり、真の寛容なる振舞いであり、民衆に真実の幸福を与えていく源泉である。すなわち折伏弘教は、あらゆる人びとが平等に尊厳なる妙法の当体であるとの前提にもとづいて行われているのである。妙法の当体でなければ、なんで折伏する必要があろうか。
 われわれが折伏するのは、相手がだめな人間であると、非難したり、悪口をいったりするものではない。事実は、まったく逆であり、相手のもつ誤った宗教、低い人生観を打ち破り、邪見、偏見におおわれていた、清浄無染にして、力強い、尊厳きわまりなき、妙法蓮華経という大生命をあらわさんがためである。これもっとも相手を尊敬する行為であり、かつ生命の尊厳を基調とする民主主義の先駆をなすものではないか。しかもまた、いかなる迫害にも屈することなく一切衆生の幸福を願って忍耐強く折伏しゆくことは、最大の寛容ではないか。
 いま慎んで日蓮大聖人のお振舞いをみるならば、そこに獅子王のごとき勇姿を見るとともに、一切衆生を救う大慈悲がうかがえるのである。
 日蓮大聖人は、三類の強敵と戦い、邪宗邪義を破折し、正法正義を打ち立てられた。松葉ケ谷の襲撃、小松原の法難、伊豆および佐渡への流罪、竜口(たつのくち)の法難等々、その他、大小の難は数知れず起こった。だが、大聖人は、それらの迫害にも、一切衆生の幸福を願って微動だもすることなく、いよいよ御本仏の大確信に立たれたのであった。しかも、迫害した人びとを恨むどころか、むしろ、それらの人びとを善知識と呼ばれたのであった。




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