[13881] 題名:無知蒙昧のエセ日蓮を語る FTさんへ
名前:霞ヶ関リークス
◇5WBnmh.AZo
MAIL
投稿日:
2025/09/21(日) 13:21
2001:ac8:88:9001:c82c:38f7:ee57:8250(IPv6:) (2001:ac8:88:9001:c82c:38f7:ee57:8250)
>大聖人が病気だったから書けるはずがない?
>それはただの憶測ではないか!!
>不適切にもほどがあ。
これはすでに文証を提示していますよ。
読解力が無かったのですね!
興師が代筆した『波木井殿御報』には
「所らうのあひだ、はんぎゃうをくはへず」とあり、このときが9月19日。
蓮師の体力は限界を迎えており、筆を持つ力は既になく、代筆はさせても、
花押を書く力すら残っていなかったことが窺われます。
>文証や理証よりも現証が、一番強いからだ。
道理文証より現証に如かずとの御文に於ても、三三蔵祈雨の御書に『日蓮仏法
をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず』
とあるをもつて、現証を以つてのみ邪正を決するものとしているが、御書の文
は道理と文証によつて邪正を決し、しかしてそれに於て邪正を決しても、現証
の有無或は善悪が重要であるとの御思召しであるは論を俟たないことである。
若し現証によつてのみ仏法の邪正を決するとならば、事実を曲解し悪言を逞し
うして現証を論断するものが正法者ということになる。 現証が盛んに論議さ
れるのは、その前提に法の邪正が決定されての上の論議である。唯俗間に於ては
法の邪正の論議が難しいのと、信仰の決定に直接的でない嫌いがあるからに他
ならない。此れはいずれも俗間の論争である。少くとも仏者たるものであるなら
ば必らず法の邪正を第一に決定すべきである。