宿坊の掲示板
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[13875]

題名:池田先生指導!!

名前:FT

◇S3OiZExQd2
MAIL 投稿日: 2025/09/20(土) 07:10 p027.net182021176.tokai.or.jp (182.21.176.27)

時代は荒海のごとく激しく揺れ動いています。だからこそ、私たちは、御書という最高無上の大哲学の羅針盤を厳と抱きしめて、広布と人生の航路を断固として進んでいきたい。

『日女御前御返事』の一節に、
『此の御本尊全く余所(よそ)に求(もとむ)る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是九識心王真如の都(くしきしんのうしんにょのみやこ)とは申すなり』〈御書 1244p〉。そして『此の御本尊も只信心の二字にをさまれり』〈同ページ〉
とあります。

日蓮仏法が、どれほど深遠に、どれほど明晰に、生命の尊厳を解き明かしているか。妙法を信受(しんじゅ)した、この私たちの命それ自体が、根本尊敬(こんぽんそんぎょう)の当体であるとまで、示されているのであります。ゆえに、自分を卑下などしては、決してなりません。

宇宙の大法則と完璧に合致して、最極の『仏の生命の都』を、わが胸奥に輝き光らせていけるのが、『信心』の二字であります。

したがって、この真髄を深く実践していくならば、まだまだ計り知れない智慧と力を引き出すことができる。汝自身が、荘厳なる生命の宝塔(ほうとう)として、いかなる『生老病死(しょうろうびょうし)』の苦悩にも負けず、『常楽我浄(じょうらくがじょう)』という、希望と歓喜の光を、そして幸福と平和の光を、未来永遠に放っていくことができるのであります。」と池田先生は厳然と言われている。

九識論(くしきろん)とは、生命がものごとを認識する働きの「識」を、9種類に分類した仏法の生命哲学だ。
私たちが、宿命転換、あるいは人間革命と呼ぶ人生変革の原理は、この九識論で説明することができる。
九識の分類は、以下の通りだ。
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五識(眼・耳・鼻・舌・身体)
六識(意識)
七識(末那識・まなしき)
八識(阿頼那識・あらやしき)
九識(阿摩羅識・あまらしき)
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分類は、今は邪宗だが各宗派の教義の根本である「経典」の解釈によって異なっている。
倶舎宗では六識、法相宗では八識心王としている。
これに対し、これも邪宗だが天台宗は九識心王だ。
生命活動は、五識(眼・耳・鼻・舌・身体)と六識(意識)の働きで営まれている。
六識(意識)は、五識からの情報に反応し、推量して働くことになるが、同じ局面に生きている人間であっても、行動と状態には個々差異が生じる。これが意識だ。
その差異(差別)の根源は、個々の心の傾向性から生じてくるもので、この発生場所を第七識として定義し、「末那識(まなしき)」と呼ぷ。末那(manas)とは、「思量するもの」の意味で、「自我意識」わかりやすく言えば、無意識のことだ。
では、何故、違った個性、認識の相違が生じるのか。
仏教では、この差別の根本原因を、第八識の阿頼那識(あらやしき)で説明している。阿頼那識(あらやしき)とは、「宿業」のことだ。阿頼那(alaya)」とは「貯蔵する」という意味で、過去のあらゆる行動は、種子(植物のタネ)として、あるいは「業(karman)」として、生命の深層に蓄えられる。ちなみに、ヒマラヤ(hima-alaya)とは、雪(hima)の蔵(alaya)の意味で、「多くの雪を収めた蔵」が原意だ。
ヒマラヤが途方もない年月で雪を蓄えたように、私たちも繰り返される生死の中で、おびただしい数量の業を命に蓄えている。
さて、仏法では、この第八識の業を、善業と悪業に分類している。
善業の顕在化は慈悲や知恵として働いて、将来の「楽」の境涯をもたらし、悪業は、三毒などの煩悩となって「苦」の境涯を引き起こす。これを仏法では、「善因楽果」、「悪因苦果」という。だから悪業を善業に変化させれば、幸せになれる。
この第八識は、「激しい川の流れ」に例えられるほどの巨大な力を持っている。「馬鹿は死ななきゃ治らない」と言うが、実際には「死んでも治らない」というのが宿業の真相た。だから宿命転換は、大変難しいことだ。
それでは、具体的に、悪業に汚された命を、どうすれば変化させられるのか。その最短の方法とは何なのか。
その宿業を変革できる力こそ、第九識に分類されている「阿摩羅識(あまらしき)」であり、天台が「九は是れ仏識」と定義した「仏の生命」だ。
阿摩羅(amala)とは、「汚れのない」という意味だ。
この第九識の「仏識」を、日蓮大聖人は、「九識心王真如の都」とも「南無妙法蓮華経」とも呼ばれた。有難いことに、大聖人は後世の私たちのために、第八識の宿業の闇を打ち破る方法として、御本尊への唱題行を確立した。
わかりやすくいうならば八識の阿頼那識で臆病で悪いものに対して悪いと言えなく悪業与同罪を積み続けて善業すなわち仏力で勇気を奮い起こして悪いものに対して破折をする闘いを積まなければ成仏すなわち絶対的幸福は掴めないという事だ。
慈悲魔というものがある。これも命の奥底は臆病だが、釈迦の弟子が婆羅門の目が不自由だからと思いやって自分の目を与えたら婆羅門はその弟子がくれた片目に唾を吐きかけ地面に叩きつけた。釈迦の弟子はそれをみて悲しがり悔しがりこの仏法から退転した。
学会を信じて信心した、だから学会が間違って邪宗になっても自分が信じた心を信じたい。これが臆病でありそこから生じた執着だ。そこから抜け出せない。無明だ。その学会を思いやる慈悲その奥底だが、そこに魔は漬け込んで覚醒させなくし命を奪い功徳を奪っていく。それが会員が自ら受けている真実だ。無間地獄そのものだ。実に怖ろしい事だ!!だから絶対破折しなくてはいけない!!




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