[13873] 題名:魔は仏には絶対勝てない!!
名前:FT
◇S3OiZExQd2
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投稿日:
2025/09/20(土) 06:51
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問うて云く天竺・震旦は外道が仏法をほろぼし小乗が大乗をやぶるとみえたり、此の日本国もしかるべきか、答えて云く月支・尸那には外道あり小乗あり此の日本国には外道なし小乗の者なし、紀典博士等これあれども仏法の敵となるものこれなし、小乗の三宗これあれども彼宗を用て生死をはなれんとをもはず但大乗を心うる才覚とをもえり、但し此の国には大乗の五宗のみこれあり人人皆をもえらく彼の宗宗にして生死をはなるべしとをもう故にあらそいも多くいできたり、又檀那の帰依も多くあるゆへに利養の心もふかし。 第四に行者仏法を弘むる用心を明さば、夫れ仏法をひろめんと・をもはんものは必ず五義を存して正法をひろむべし、五義とは一には教・二には機・三には時・四には国・五には仏法流布の前後なり、第一に教とは如来一代五十年の説教は大小・権実・顕密の差別あり、華厳宗には五教を立て一代ををさめ其の中には華厳・法華を最勝とし華厳・法華の中に華厳経を以て第一とす、南三・北七・並に華厳宗の祖師・日本国の東寺の弘法大師・此の義なり、法相宗は三時に一代ををさめ其の中に深密・法華経を一代の聖教にすぐれたりとす、深密・法華の中・法華経は了義経の中の不了義経・深密経は了義経の中の了義経なり、三論宗に又二蔵・三時を立つ三時の中の第三・中道教とは般若・法華なり、般若・法華の中には般若最第一なり、真言宗には日本国に二の流あり東寺流は弘法大師・十住心を立て第八法華・第九華厳・第十真言・法華経は大日経に劣るのみならず猶華厳経に下るなり、天台の真言は慈覚大師等・大日経と法華経とは広略の異・法華経は理秘密・大日経は事理倶密なり、浄土宗には聖道・浄土・難行・易行・雑行・正行を立てたり浄土の三部経より外の法華経等の一切経は難行・聖道・雑行なり、禅宗には二の流あり一流は一切経・一切の宗の深義は禅宗なり一流は如来一代の聖教は皆言説・如来の口輪の方便なり禅宗は如来の意密言説にをよばず教外の別伝なり、倶舎宗・成実宗・律宗は小乗宗なり天竺・震旦には小乗宗の者・大乗を破する事これ多し日本国には其の義なし。 問うて云く諸宗の異義区なり一一に其の謂れありて得道をなるべきか・又諸宗・皆謗法となりて一宗計り正義となるべきか、答えて云く異論相違ありといえども皆得道なるか、仏の滅後四百年にあたりて健駄羅国の迦弐色迦王仏法を貴み一夏・僧を供し仏法をといしに一一の僧・異義多し此の王不審して云く仏説は定て一ならんと終に脇尊者に問う、尊者答て云く金杖を折つて種種の物につくるに形は別なれども金杖は一なり形の異なるをば諍うといへども金たる事をあらそはず、門門不同なればいりかどをば諍えども入理は一なり等と云云、又求那跋摩云く諸論各異端なれども修行の理は二無し偏執に是非有りとも達者は違諍無し等と云云、又五百羅漢の真因各異なれども同く聖理をえたり、大論の四悉檀の中の対治悉檀・摂論の四意趣の中の衆生意楽意趣・此等は此の善を嫌い此の善をほむ、檀戒進等一一にそしり一一にほむる皆得道をなる、此等を以てこれを思うに護法・清弁のあらそい・智光・戒賢の空中・南三・北七の頓・漸・不定・一時・二時・三時・四時・五時・四宗・五宗・六宗・天台の五時・華厳の五教・真言教の東寺・天台の諍・浄土宗の聖道・浄土・禅宗の教外・教内、入門は差別せりというとも実理に入る事は但一なるべきか。 難じて云く華厳の五教・法相・三論の三時・禅宗の教外・浄土宗の難行・易行・南三北七の五時等門はことなりと・いへども入理・一にして皆仏意に叶い謗法とならずといはば謗法という事あるべからざるか・謗法とは法に背くという事なり法に背くと申すは小乗は小乗経に背き大乗は大乗経に背く法に背かばあに謗法とならざらん謗法とならば・なんぞ苦果をまねかざらん、此の道理にそむく・これひとつ、大般若経に云く「般若を謗ずる者は十方の大阿鼻地獄に堕つべし」法華経に云く「若し人信ぜずして乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」と涅槃経に云く「世に難治の病三あり・一には四重・二には五逆・三には謗大乗なり」此等の経文あに・むなしかるべき、此等は証文なり、されば無垢論師・大慢婆羅門・熈連禅師・嵩霊法師等は正法を謗じて現身に大阿鼻地獄に堕ち舌口中に爛れたりこれは現証なり、天親菩薩は小乗の論を作つて諸大乗経をはしき、後に無著菩薩に対して此の罪を懺悔せんがために舌を切らんとくい給いき、謗法もし罪とならずんば・いかんが千部の論師懺悔をいたすべき、闡提とは天竺の語此には不信と翻ず不信とは一切衆生・悉有仏性を信ぜざるは闡提の人と見へたり。 不信とは謗法の者なり恒河の七種の衆生の第一は一闡提・謗法常没の者なり、第二は五逆謗法・常没等の者なりあに謗法ををそれざらん、答えて云く謗法とは只由なく仏法を謗ずるを謗法というか我が宗をたてんがために余法を謗ずるは謗法にあらざるか、摂論の四意趣の中の衆生意楽意趣とは仮令人ありて一生の間一善をも修せず但悪を作る者あり而るに小縁にあいて何れの善にてもあれ一善を修せんと申すこれは随喜讃歎すべし、又善人あり一生の間ただ一善を修す而るを他の善え・うつさんがために・そのぜんをそしる、一事の中に於て或は呵し或は讃すというこれなり、大論の四悉檀の中の対治悉檀又これをなじ、浄名経の弾呵と申すは阿含経の時ほめし法をそしるなり、此等を以てをもふに或は衆生多く小乗の機あれば大乗を謗りて小乗経に信心をまし或は衆生多く大乗の機なれば小乗をそしりて大乗経に信心をあつくす、或は衆生・弥陀仏に縁あれば諸仏をそしりて弥陀に信心をまさしめ、或は衆生多く地蔵に縁あれば諸菩薩をそしりて地蔵をほむ、或は衆生多く華厳経に縁あれば諸経をそしりて華厳経をほむ、或は衆生・大般若経に縁あれば諸経をそしりて大般若経をほむ、或は衆生法華経・或は衆生・大日経等同く心うべし、機を見て或は讃め或は毀る共に謗法とならず而るを機をしらざる者みだりに或は讃め或は呰るは謗法となるべきか、例せば華厳宗・三論・法相・天台・真言・禅・浄土等の諸師の諸経をはして我が宗を立つるは謗法とならざるか。 難じて云く宗を立てんに諸経・諸宗を破し仏・菩薩を讃むるに仏・菩薩を破し他の善根を修せしめんがために・この善根をはする・くるしからずば阿含等の諸の小乗経に華厳経等の諸大乗経をはしたる文ありや、華厳経に法華・大日経等の諸大乗経をはしたる文これありや、答えて云く阿含小乗経に諸大乗経をはしたる文はなけれども華厳経には二乗・大乗・一乗をあげて二乗・大乗をはし・涅槃経には諸大乗経をあげて涅槃経に対してこれをはす、密厳経には一切経中王ととき・無量義経には四十余年未顕真実ととかれ・阿弥陀経には念仏に対して諸経を小善根ととかる、これらの例一にあらず故に又彼の経経による人師皆此の義を存せり、此等をもつて思うに宗を立つる方は我が宗に対して諸経を破るはくるしからざるか、難じて云く華厳経には小乗・大乗・一乗とあげ・密厳経には一切経中王ととかれ涅槃経には是諸大乗とあげ阿弥陀経には念仏に対して諸経を小善根とは・とかれたれども無量義経のごとく四十余年と年限を指して其の間の大部の諸経・阿含・方等・般若・華厳等の名をよびあげて勝劣をとける事これなし、涅槃経の是諸大乗の文計りこそ雙林最後の経として是諸大乗と・とかれたれば涅槃経には一切経は嫌はるかとをぼうれども是諸大乗経と挙げて次ぎ下に諸大乗経を列ねたるに十二部・修多羅・方等・般若等とあげたり無量義経・法華経をば載せず、但し無量義経に挙ぐるところは四十余年の阿含・方等・般若・華厳経をあげたり、いまだ法華経・涅槃経の勝劣はみへず密厳に一切経中王とはあげたれども一切経をあぐる中に華厳・勝鬘等の諸経の名をあげて一切経中王ととく故に法華経等とはみへず、阿弥陀経の小善根は時節もなし善根の相貌もみへず、たれかしる小乗経を小善根というか又人天の善根を小善根というか又観経・雙観経の所説の諸善を小善根というかいまだ一代を念仏に対して小善根というとはきこえず。 又大日経・六波羅蜜経等の諸の秘教の中にも一代の一切経を嫌うてその経をほめたる文はなし、但し無量義経計りこそ前四十余年の諸経を嫌い法華経一経に限りて已説の四十余年・今説の無量義経・当説の未来にとくべき涅槃経を嫌うて法華経計りをほめたり、釈迦如来・過去・現在・未来の三世の諸仏・世にいで給いて各各一切経を説き給うにいづれの仏も法華経第一なり、例せば上郎・下郎・不定なり田舎にしては百姓・郎従等は侍を上郎といふ、洛陽にして源平等已下を下郎といふ三家を上郎といふ、又主を王といはば百姓も宅中の王なり地頭・領家等も又村・郷・郡・国の王なりしかれども大王にはあらず、小乗経には無為涅槃の理が王なり小乗の戒定等に対して智慧は王なり、諸大乗経には中道の理が王なり又華厳経は円融相即の王・般若経は空理の王・大集経は守護正法の王・薬師経は薬師如来の別願を説く経の中の王・雙観経は阿弥陀仏の四十八願を説く経の中の王・大日経は印真言を説く経の中の王・一代一切経の王にはあらず、法華経は真諦・俗諦・空仮中・印真言・無為の理・十二大願・四十八願・一切諸経の所説の所詮の法門の大王なり、これ教をしれる者なり而るを善無畏・金剛智・不空・法蔵・澄観・慈恩・嘉祥・南三・北七・曇鸞・道綽・善導・達磨等の我が所立の依経を一代第一といえるは教をしらざる者なり、但し一切の人師の中には天台智者大師・一人教をしれる人なり、曇鸞・道綽等の聖道・浄土・難行・易行・正行・雑行は源と十住毘婆沙論に依る彼本論に難行の内に法華・真言等を入ると謂は僻案なり、論主の心と論の始中終をしらざる失あり慈恩が深密経の三時に一代ををさめたる事、又本経の三時に一切経の摂らざる事をしらざる失あり、法蔵澄観等が五教に一代ををさむる中に法華経・華厳経を円教と立て又華厳経は法華経に勝れたりと・をもえるは所依の華厳経に二乗作仏・久遠実成をあかさざるに記小久成ありと・をもひ華厳よりも超過の法華経を我経に劣ると謂うは僻見なり、三論の嘉祥の二蔵等・又法華経に・般若経すぐれたりとをもう事は僻案なり、善無畏等が大日経は法華経に勝れたりという法華経の心をしらざるのみならず大日経をもしらざる者なり。