[13869] 題名:無間地獄
名前:FT
◇S3OiZExQd2
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投稿日:
2025/09/20(土) 06:21
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池田先生は、ルネユイグ氏との対談でこう言われてます。
「時間性と人間生命の発展段階に関する仏教の考え方を示す例を、もう一つ上げましょう。それは、前にもとりあげた十界の理論ですが、これが先に申し上げた九識論と結びついているのです。この十界の理論は人間の生命があらわす変化を十の範疇に分けたもので、その名称は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏です。九識論との関係でいえば、第九識を顕現している生命の状態が仏界です。菩薩は、第九識には到達していませんが、第八識までを顕現している状態と考えられます。声聞と縁覚とは、第七識までをあらわして働かせている状態です。天・人以下においては第六識が中心で、第七識は稀に顕現するだけといった状態です。いいかえれば、天、人以下は本能的欲望の追求に終始している生命の状態といってよいでしょう。これを、もう少し詳細に述べますと、地獄から修羅までは、本能的な欲望が満たされないために苦しみを味わっている状態です。地獄はあらゆる欲求、生存欲さえも抑圧され、しかも束縛されている苦しみの極致をいいます。餓鬼は、満たされない欲望に苛まれている状態、畜生は、目先の欲望を追うあまり、自らをしだいに苦悩へ追い込んでいく状態です。修羅は、自己顕示欲にとらわれた状態で、一時的には喜びを得ることもありますが、自分より優れた者、自分より幸せな者に会うと、激しい苦しみにおちいります。人と天とは、一応、本能的な欲望が満たされた状態で、人は平穏、天は歓喜をその特色とします。 しかし、こうした欲望の充足は一時的なもので、崩れやすく、したがって、天・人以下、地獄にいたる六つは、苦悩か、あるいは幸福といっても絶えず移ろう無常の幸福の様相を示しています。これらに対して、感覚的、本能的な欲望の追求に終始するのではなく、永遠的な真理を悟ることによって、恒常的な幸福を確立しようとするのが、声聞以上の四つです。声聞とは「声を聞く」という意味で、先に悟り得ている人の教えを学び、それに習うことによって、真理を得ようとし、また、そこに喜びを感じていく生命の状態です。縁覚とは、自ら自然の中に身をおき、自然界の万物が語りかける教えから直接に真理を得ようとし、また、そこに喜びを感じていく生命の状態をいいます。菩薩とは、結局、永遠的な真理が、あらゆる人びとや生命的存在に対してそれを慈しむ愛ー慈悲ーにあることを知り、その慈悲を実践することによって自らの生命の内におのずあらわれてくるとして、これを実行する人、また、そうした生命の状態をいいます。そして仏とは、先に述べましたように、最も深い自己認識に達した人をいいますが、それは、究極的真理を自らの内に確立している人あるいは、そうした生命の状態をいうのです。」(池田大作全集5 513ページ〜514ページ)
と、そして池田先生は師敵対した輩こそ仏敵だと言われました。そして無間地獄に必ず堕ちると。正しく54年池田先生を裏切った臆病な原田、秋谷を始めとした学会の組織は仏敵であり成仏に向かう生存欲を抑圧され第六之魔王に見えない鎖で隷属され束縛され苦しみ、そこから脱却できないで無間地獄に堕ち、生命力もなく生きている喜びを全く感じる事ができないのが現実であり真実と言わざるおえない。
この無間地獄から脱却するには大勇猛心を奮い立たせ題目を上げに上げて悪いことは悪いと、おかしい事はおかしいと声を上げ、どんな難がこようと絶対負けずに、この大聖人の仏法の大確信に立ち勝ち続ける事です。必ず成仏は間違いない。大聖人が約束しているんです。