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[13737]

題名:十四誹謗

名前:FT

◇S3OiZExQd2
MAIL 投稿日: 2025/08/27(水) 20:40 p027.net182021176.tokai.or.jp (182.21.176.27)

   松野殿御返事(十四誹謗抄)

   法華経の修行と十四謗法

本文(一三八一㌻十四行~一三八二㌻十三行)
 御文(ふみ)に云く此の経を持(たも)ち申して後退転なく十如是・自我偈を読み奉り題目を唱へ申し候なり、但し聖人の唱えさせ給う題目の功徳と我等が唱へ申す題目の功徳と何程の多少候べきやと云云、更に勝劣あるべからず候、其の故は愚者の持ちたる金(こがね)も智者の持ちたる金も・愚者の然(とも)せる火も智者の然せる火も其の差別なきなり、但し此の経の心に背いて唱へば其の差別有るべきなり、此の経の修行に重重のしなあり其大概(おおむね)を申せば記の五に云く「悪の数を明かすことをば今の文には説・不説と云ふのみ、有る人此れを分って云く、先きに悪因を列(つら)ね次ぎに悪果を列ぬ悪の因に十四あり・一に憍慢(きょうまん)・二に懈怠(けたい)・三に計我(けいが)・四に浅識(せんしき)・五に著欲(じゃくよく)・六に不解(ふげ)・七に不信(ふしん)・八に顰蹙(びんしゅく)・九に疑惑(ぎわく)・十に誹謗(ひぼう)・十一に軽善(きょうぜん)・十二に憎善(ぞうぜん)・十三に嫉善(しつぜん)・十四に恨善(こんぜん)なり」此の十四誹謗は在家出家に亘(わた)るべし恐る可し恐る可し、過去の不軽菩薩は一切衆生に仏性あり法華経を持たば必ず成仏すべし、彼れを軽んじては仏を軽んずるになるべしとて礼拝(らいはい)の行をば立てさせ給いしなり、法華経を持たざる者をさへ若し持ちやせんずらん仏性ありとてかくの如く礼拝し給う何(いか)に況(いわん)や持てる在家出家の者をや、此の経の四の巻には「若しは在家にてもあれ出家にてもあれ、法華経を持ち説く者を一言にても毀(そし)る事あらば其の罪多き事、釈迦仏を一劫の間直ちに毀(そし)り奉る罪には勝れたり」と見へたり、或は「若実若不実(にゃくじつにゃくふじつ)」とも説かれたり、之を以て之を思ふに忘れても法華経を持つ者をば互に毀(そし)るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり。
 加様に心得て唱うる題目の功徳は釈尊の御功徳と等しかるべし、釈に云く阿鼻(あび)の依正(えしょう)は全く極聖(ごくしょう)の自身に処し毘盧(びる)の身土は凡下の一念を逾(こ)えず云云、十四誹謗の心は文に任せて推量あるべし。

 松野殿からの手紙に「法華経(御本尊)を受持して後、退転することなく、方便品の十如是と寿量品の自我偈を読誦し、題目を唱えています。しかし、その題目も、聖人が唱えられる題目の功徳と、われわれが唱える題目の功徳とでは、どれほどの相違があるのでしょうか」との御質問があった。
 そこで、その質問にお答えするのだが、題目の功徳には、まったく勝劣はない。その理由は、愚者が持っている金(こがね)も、智者の持っている金も、また、愚者がともす火も、智者がともす火も、何ら差別、相違がないのと同じ道理である。但しこの法華経(御本尊)の心にそむいて題目を唱えた場合には、差別はあるのである。
 法華経の修行にも重々の段階がある。その概略を述べるならば、妙楽大師の法華文句記の五の巻には「悪(謗法)の数を明らかにすることについて、法華経の譬喩品第三には『説不説(智者には説き聞かせるが、愚者に対しては説いても理解できないから説く必要がない)』とだけ説かれている。ある人(慈恩)は、この悪の数を分けて、次のように説いている。『さきに謗法の悪因を列挙し、次に悪果を述べてみる。まず悪因には十四の謗法がある。一に憍慢、二に懈怠、三に計我、四に浅識、五に著欲、六に不解、七に不信、八に顰蹙、九に疑惑、十に誹謗、十一に軽善、十二に憎善、十三に嫉善、十四に恨善である』」とある。
 この十四誹謗は、在家出家の両方にわたるのであるから、謗法の罪を恐れなければならない。
 過去の不軽菩薩は、いっさいの衆生には、みな仏性がある、法華経を持つならば、必ず成仏する、その一切衆生を軽蔑することは、仏を軽んずることになる、といって一切衆生に向かって礼拝の行を立てたのである。
 不軽菩薩は、法華経を持っていない者でさえも、もしかしたら持つかもしれない、本来仏性があるとして、このように敬い、礼拝したのである。まして、法華経(御本尊)を持っている、在家出家の者においては当然、尊敬しなければならない。
 法華経第四の巻の法師品第十には「もし在家の身であれ、あるいは出家であれ、法華経を持ち、説く者に対して、一言でもそしるならば、その罪報の多いことは、釈迦仏を一劫の間、面と向かってそしった罪よりも重い罪をうける」と、説かれている。
 あるいは普賢菩薩勧発品第二十八に「もし事実にしても、あるいは事実でないにしても、法華経を持つ者の悪口をいえば、その罪は重い」とも説かれている。これらの経文に照らして考え合わせるならば、かりにも法華経(御本尊)を持つ者を、互いに、そしってはならないのである。その理由は、法華経(御本尊)を持つ者は、必ず、みな仏なのであって、仏をそしれば罪をうけるのは、当然だからである。
 このように心得て唱える題目の功徳は、仏の唱える功徳と等しいのである。妙楽大師の金錍論(こんぺいろん)に「阿鼻地獄の依報であるその地獄の国土も、正報であるその地獄の衆生も、ともに尊極の聖人である仏の生命の中にあり、また毘盧遮那(びるしゃな)仏の身も、その仏国土も、凡夫であるわれら衆生の一念を越えて存在するものではない。すべて一念の心、生命の中にある」と釈している。十四誹謗の本意は、この文によって、推量していきなさい。




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