[13441] 題名:先生指導(抜粋)です。
名前:末端信者
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投稿日:
2025/07/18(金) 17:58
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「五老僧」の立場を、現代の私達に分かりやすくいえば「方面長」とでもいえる存在であろうか。しかし、ことは仏法上の根本問題である。
自らの増上慢の心に流され、正法から離れてしまえば、最も決定的な悪となる。そして、最も戒めるべき破和合僧へと通じてしまう。
しかも、指導的立場にある中心者の狂いは、その人についている多くの人々をも迷わせてしまう。
これ以上の不幸はない。たとえ、本人に罪はなくとも、信心の濁った中心者につけば、その人たちの信心も濁流に染まっていってしまう。
それほど仏法は厳しく、信心は厳格に見なくてはならない。ゆえに、五老僧についた信徒には、信心の厳しき目からみれば、功徳はない。
第六天の魔王の眷属となった者は、絶対に成仏はできないのである。五老僧は自分のエゴと慢心が中心となり、正師を見失った。
″心を師とする″姿に堕ちたのである。そうした本性は、いかにとりつくろい、飾ろうとも、隠しおおせるものではない。
必ずや一生涯のうちに赤裸々に現れてしまう。現代にも信念なく、さまざまな権威や勢力と野合を繰り返し、広布を阻もうとする輩もいる。
五老僧に通じる、同じ方程式の心理と行動といってよい。もはや「法のために」「広宣流布のために」また「民衆のため、仏子のために」という心ではなかった。ただ我が身かわいさの一心であった。民衆への慈悲もない。保身と策略の心しかなかった。ともあれ、大聖人の仏法は
「立正安国論に始まり、立正安国論に終わる」といわれる。その根本精神を彼らは捨て去った。保身のために大恩ある師の正義を曲げた、
何より一人の「人間として」まともでない。現代の″五老僧の眷属″ともいうべき退転者たちも、まず人間として、ひんしゅくを買う行動が余りにも多かった。信心が狂ってしまえば、もはや手のつけようがない。背信は本人ばかりか、一族、子孫末代までも苦しめてしまう。
大聖人が仰せのごとく、信心は「信順」を第一義としなければならない。今の退転者たちも、ついこの間まで、「学会と池田先生の大恩は山よりも高い」、「生涯かけて、ご恩返しをいたします」等と、自らすすんで書いてきた。私が嘆くのは、忘恩うんぬんではない。そうした変節の徒は、自分自身の、かけがえのない″生命の法器″を自ら破壊してしまう。ただ、そのことが、かわいそうでならないだけである。
広布の大遠征においても、幾多の「裏切り」や「反逆」、「憎悪」「策謀」等に遭遇することがあるにちがいない。
信心のない人間が、肩書とか権力とか学歴とか、そんなものでいくら表面を飾っても虚しいだけである。
学会の清き信心の流れを、どこまでも守り抜いていく一人一人であっていただきたい、と心から念願し、記念のスピーチとさせていただく。」
諸悪の根源である 現代の五老僧、4・5・6と色淫患部。