宿坊の掲示板
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[13283]

題名:呵責謗法滅罪抄

名前:FT

◇S3OiZExQd2
MAIL 投稿日: 2025/06/30(月) 06:05 p027.net182021176.tokai.or.jp (182.21.176.27)

御文(おんふみ)委(くわし)く承り候。法華経の御ゆへに已前に伊豆の国に流され候いしも、かう(斯)申せば謙(へら)ぬ口と人はおぼすべけれども、心ばかりは悦(よろこ)び入って候いき。無始より已来(このかた)、法華経の御ゆへに、実(まこと)にても虚事(そらごと)にても科(とが)に当るならば、争(いかで)か、かかるつたなき凡夫とは生れ候べき。一端(いったん)はわびしき様なれども、法華経の御為なればうれしと思い候いしに、少し先生(せんじょう)の罪は消えぬらんと思(おぼ)しかども、無始より已来の十悪・四重・六重・八重・十重・五無間(ごむげん)・誹謗正法・一闡提(いっせんだい)の種種の重罪、大山より高く大海より深くこそ候らめ。
 五逆罪と申すは一逆を造る、猶(なお)、一劫、無間の果を感ず。一劫と申すは人寿(にんじゅ)八万歳より百年に一を減じ、是(か)くの如く乃至十歳に成りぬ。又十歳より百年に一を加うれば、次第に増して八万歳になるを一劫と申す。親を殺す者此(こ)れ程の無間地獄に堕ちて隙(ひま)もなく大苦を受くるなり。法華経誹謗の者は心には思はざれども、色にも嫉(ねた)み、戯(たわむ)れにも訾(そし)る程ならば、経にて無けれども、法華経に名を寄せたる人を軽しめぬれば、上(かみ)の一劫を重ねて、無数劫、無間地獄に堕ち候と見えて候。不軽菩薩を罵(の)り打ちし人は始めこそさありしかども、後には信伏随従(しんぷくずいじゅう)して不軽菩薩を仰ぎ尊ぶ事、諸天の帝釈を敬ひ、我等が日月(にちがつ)を畏(おそ)るるが如くせしかども、始め訾(そし)りし大重罪消えかねて、千劫、大阿鼻地獄に入って二百億劫、三宝に捨てられ奉りたりき。
 五逆と謗法とを病(やまい)に対すれば、五逆は霍乱(かくらん)の如くして急に事を切る。謗法は白癩病(びゃくらいびょう)の如し。始は緩(ゆるや)かに後(のち)漸漸(ぜんぜん)に大事なり。謗法の者は多くは無間地獄に生じ、少しは六道に生(しょう)を受く。人間に生ずる時は貧窮(びんぐ)・下賤(げせん)等、白癩病等と見えたり。日蓮は法華経の明鏡をもって自身に引き向(むか)へたるに都(すべ)てくもりなし。過去の謗法の我が身にある事疑(うたがい)なし。此(こ)の罪を今生(こんじょう)に消さずば未来に争(いかで)か地獄の苦をば免(まぬか)るべき。過去遠遠(おんのん)の重罪をば、何(いか)にしてか皆集めて今生に消滅して未来の大苦を免れんと勘(かんが)えしに、当世、時に当って謗法の人人、国国に充満せり。其の上、国主既(すで)に第一の誹謗の人たり。此の時此の重罪を消さずば何(いつ)の時をか期(ご)すべき。日蓮が小身を日本国に打ち覆うてののしらば、無量無辺の邪法の四衆等、無量無辺の口を以て一時に訾(そし)るべし。爾(そ)の時に国主は謗法の僧等が方人(かとうど)として日蓮を怨(あだ)み、或は頚(くび)を刎(は)ね、或は流罪に行ふべし。度度(たびたび)かかる事出来(しゅったい)せば、無量劫の重罪一生の内に消えなんと謀(くわだ)てたる大術(だいじゅつ)少しも違(たが)ふ事なく、かかる身となれば所願も満足なるべし。

文永十年(一二七三年)、佐渡に流された大聖人が鎌倉の愛(まな)弟子四条金吾に宛てて認(したた)められたお手紙である。
 題号の示す通り、謗法を呵責することによって、過去世からの重罪を今世のうちに滅除することができるとの原理が説かれた御書である。
 前半では伊豆流罪、佐渡流罪等の大難を受けられた大聖人御自身のお振舞いを通して、「呵責謗法滅罪」の法門を示されている。中段から後半にかけては、地涌の菩薩出現の客観的必然性を説かれ、その地涌の菩薩こそ久遠本仏の外用(げゆう)の姿であり、この菩薩の上首上行が久遠よりの大法南無妙法蓮華経を弘めゆくことを明かされている。このほか、四条金吾夫人の信仰を激励、謗法による三災七難の現証と妙法流布の瑞相との関連性、亡き母への孝養を行なう心構え、兄弟に対する境涯論等、本抄においても事細かに指導なされている。
 周知の如く、大聖人は佐渡という想像を越えた逆境の中にある。御自身がこうした環境にありながら鎌倉をはじめとして各所に点在する門下を心から憶(おも)われ激励なされたその姿は、まさしく御本仏の大慈悲のあらわれとしかいいようがあるまい。
「何(いか)なる世の乱れにも、各各をば法華経・十羅刹助け給へと、湿れる木より火を出し、乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」(一一三二㌻)と。自分がどうなろうと、弟子を必ず守るとの強い御一念とともに、いかなる難事であっても、必ず成就するとの不動で強固な御一念を掉尾(とうび)に書き止められて終えられている。
五逆罪も謗法も、ともに無間地獄におちる重罪である。
だが五逆罪が一劫であるのに対し、謗法の罪は、ただ嫉(ねた)み戯れ、訾(そし)るだけで無数劫の間、無間地獄の大苦を受けるのである。訾った罪を悔いて、たとえ、信伏随従しても、千劫の間、大無間地獄に入って苦しみ、更に二百億劫の間、仏法僧の三宝にまで見捨てられるのである。
 しかも謗法の罪は、その罰が早くはあらわれず、それだけ知ることがむずかしいのである。これを病に喩えられ、「五逆は霍乱(かくらん)……謗法は白癩病」といわれている。五逆罪が霍乱、すなわち日射病や疫痢のように、直ちに結果のあらわれる重罪であり、これに比べて謗法は、白癩病のように、始めは緩(ゆるや)かで大した病ではないようだが、次第に重くなり、ついには死に到るほどの極重罪であると説き示されている。
五逆と謗法とがどうしてこれほどまで相違があるのか。五逆罪は〝殺〟と〝破〟の罪である。生命それ自体を傷つけ、死に追いやり、和合僧の集団を破る、反生命的、反社会的な行為である。これほどの重罪はないはずである。これに比べ、謗法は法への反逆である。それは、自身の仏種を、自身で断ずる行為をしていることになる。
すなわち、五逆罪は、現象面の皮相的な罪であるのに対し、謗法は現象の内面に貫かれた法の本質面を犯す罪である。それゆえ、五逆罪とは較べものにならない重罪なのである。
それでは、軽い五逆罪には直ちに結果があらわれ、重い謗法の罪には結果がなかなかあらわれないのはなにゆえか。それは、世間の法においても、死刑に処すべき者には、他の些細(ささい)な罪を不問に付すのである。開目抄(二三一㌻)に「順次生(しょう)に必ず地獄に堕つべき者は重罪を造るとも現罰なし、一闡提(いっせんだい)人(にん)これなり」とあるのがそれである。心すべきは、現象の皮相面に目をうばわれるのでなく、その内奥にある本質的な原因を知り解決への道を進むことである。
大聖人は、御自身を凡夫僧の立ち場に置かれ、三世の厳しき因果、仏法の峻厳な鉄側を説かれたのである。不幸に懊悩(おうのう)し、呻吟(しんぎん)する民衆の姿は、謗法を犯した結果である。地によって倒れたものは、地によって立たねばならない。自身の妙法誹謗の本因を感じ、御本尊により重罪を払う信仰を進めることが大事なことである。




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