[13137] 題名:三変土田
名前:FT
◇S3OiZExQd2
MAIL
投稿日:
2025/06/02(月) 12:21
p027.net182021176.tokai.or.jp (182.21.176.27)
昭和54年、側近の幹部と学会組織は大石寺宗門の権力に屈し、只一人この権力の魔障と闘われていた池田先生を裏切り先生の日本の直接な指揮を奪い一生成仏と広宣流布の軌道からはずれ脱落してしまった。本物だと思われた弟子が偽物だった事が明らかになった。
しかし仏法の眼からみれば必然的なことだ。
仏法では「三変土田」の法理がある
法華経見宝塔品第十一で説かれた、娑婆世界等を仏国土へと変えていく変革の法理である。「三変」とは、三度にわたって変えたことであり、「土田」とは、土地、場所を意味している。
見宝塔品では、七宝に飾られた巨大な宝塔が涌現する。釈尊の説く法華経の教えが真実であることを証明するために、塔の中には多宝如来がいる。しかし、宝塔の扉は固く閉ざされ、多宝如来は現れない。出現の時には、釈尊分身の諸仏を来集させてほしいというのが、多宝如来のかねてからの願いであった。
釈尊の分身の諸仏を娑婆世界に集めるには、国土を浄め、仏が集うにふさわしい仏国土にしなければならない。釈尊は、眉間から光を放って、無数の国土にいる仏たちを見る。それぞれの国土では、諸仏、菩薩が法を説いていた。
宝塔が涌現したことを知った諸仏は、釈尊と多宝如来にお会いしたいと、喜び勇んで馳せ参じるのだ。
釈尊は、諸仏を迎えるために、娑婆世界を変じて清浄にした。大地は瑠璃で彩られ、宝樹をもって荘厳され、諸仏一人ひとりのために、「師子の座」が用意された。しかし、諸仏の数は膨大で、とても収まりきらない。
そこで釈尊は、四方(東、西、南、北)・四維(西北、西南、東北、東南)の八方それぞれの、二百万億那由他という無数の国々を浄める。その国土は、すべて一つにつながり、広大なる仏国土が出現する。
だが、続々と集って来る諸仏は、それでも収まらなかった。釈尊は、さらに、八方それぞれの二百万億那由他の無数の国々を浄める。
この三度目の浄化で、娑婆世界と八方の四百万億那由他もの国々が浄められ、一つの広大無辺の仏国土が出現し、宇宙から集い来た分身の諸仏によって、満ちあふれる。
まさに、法を求め、師匠のもとに弟子が勇んで馳せ参じる、宇宙大の師弟のドラマである。そして、宝塔の扉が開かれ、釈尊と多宝如来が並座するなか、聴衆が空中に導かれ、虚空会の説法が始まるのだ。
天台大師は、この「三変土田」について、『法華文句』で、三昧によると解釈している。三昧とは、心を一つに定めて動じることのない境地、一念をいう。つまり、国土の浄化は、一念の変革によることを表している。
日蓮大聖人は、釈尊の一代聖教は「皆悉く一人の身中の法門にて有るなり」(御書五六三ページ)と仰せである。わが身を離れて仏法はない。法華経の一切は、己心の生命のドラマであり、大宇宙も、宇宙を貫く根源の法も、わが生命に収まるのだ。
天台大師は、さらに、釈尊が、三度にわたって娑婆世界等を変革したことを、人間の迷いである、見思惑、塵沙惑、無明惑の「三惑」に対応させている。
見思惑とは、見惑と思惑のことで、惑は迷いである。見惑は、真実を見極めようとしない、誤ったものの見方をいう。権威、権力にひれ伏し、外見で人を見下すことや、誤った固定観念、偏見もまた、見惑といえよう。思惑は、貪(むさぼり)、瞋(いかり)、癡(おろか)の三毒などによる迷いである。煩悩に翻弄され、エゴイズムを肥大させ、自然環境を破壊し、争いを生み出すのも、この思惑のゆえである。
御書には、『法華文句』の「瞋恚増劇にして刀兵起り貪欲増劇にして飢餓起り愚癡増劇にして疾疫起り」(七一八ページ)の文が引かれている。この文には、三毒と、刀兵(戦争)、飢餓(飢饉)、疾疫(伝染病)の因果関係が明らかにされている。戦争も、飢饉も、伝染病も、その根源は、人の一念にこそある。
「三変土田」の第一の変浄は、戦争や飢餓等の災いをもたらす、見思惑を破ったことを表しているといえよう。
第二の変浄で破られる塵沙惑とは、菩薩が人びとを救済していく時に直面する、無量無数の障害である。ある意味で、人のための崇高な迷いといえる。それを破って突き進んでいけば、すべては歓喜へと変わっていく。
さらに、無明惑とは、生命に暗いことから起こる、根本の迷いである。これこそが、成仏を妨げる一切の煩悩の根源となるのだ。それに対して、わが生命も、また一切衆生の生命も、尊厳なる「宝塔」であると悟ることが法性である。
第三の変浄で、この無明惑も破られるのである。 つまり、「三変土田」とは、生命の大変革のドラマであり、自身の境涯革命なのだ。
自分の一念の転換が、国土の宿命を転換していく――この大確信を胸に、戸田城聖は、敗戦の焦土に、ただ一人立ち、広宣流布の大闘争を展開していったのである。
日蓮大聖人は、駿河国の富士方面の中心として懸命に弘教に励む、在家のリーダーに、「釈迦仏・地涌の菩薩・御身に入りかはらせ給うか」(御書一四六七㌻)と仰せになっている。
広宣流布に邁進するわれらの生命は、釈尊すなわち仏であり、地涌の菩薩そのものとなるのである。ゆえに、娑婆世界を現実に「三変土田」させ得る力を有しているのだ。
要は何があっても広宣流布の流れは止められない、決定しているんです。だから闘い続ける事を辞めない。そしてその決意を更に深め前進するのみ!!