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池田 そうですね。端的に申し上げると、「空」というのは、あらゆるものを生みだす可能性を秘めた空間である。それは縁に触れることによって、それなりの条件というか、なんらかの作用で、応じ、働き、新たなものが誕生してくるということです。
ですから無量の潜在力、無限の創造力を秘めた“生命空間”ともいえる。
―― この「空」という概念は、東洋の仏法だけのものですね。
池田 そうだと思います。西欧の思想、哲学はもとより、宗教のなかにもみられない。仏法独自の理念と思います。
ところが、科学の進歩によって明らかになったさまざまの真理を裏づけるためには、どうしても西欧思想の範疇ではとらえきれないものがある。そこで、この仏法の「空」の理論を唯一のよりどころにせざるをえなかった。
―― それが戦後にわかにすぐれた科学者が、たとえばハイゼンベルクや、ボーア、アインシュタインなどが、仏教へ接近したことの背景になるわけですね。
池田 そのとおりです。
―― そうしますと、たとえば私たちの身体が、死によって、この現実世界には存在しなくなる。この状態を「空」といってよいのでしょうか。
池田 そういってよいでしょう。
この「空」とは、一心一念という不可思議な実在をとらえた、仏法の深遠な哲理といえる。
この「空」の背景には、八万法蔵という膨大な理論体系もありますが、原理としては「空」「仮」「中」の「三諦」として示されております。
木口 なるほど、そうですか。
「空諦」「仮諦」「中諦」とは
池田 そこで、仏法ではひとつのとらえ方として、人間があるいは万物が、この現実の世界にそれぞれの姿、形をもって存在しているのは、そうなるべき「因縁」によって仮に和合していると説いています。
木口 因縁とは、原因ということですか。
池田 そういってもよいでしょう。
経釈には「親生を因となし、疎助を縁となす」とあります。
結果を生むのに、直接関係するのが「因」(親生)であり、また、その因を助けるのが「縁」(疎助)ということになります。
その仮に和合した姿を「仮諦」というのです。
木口 「諦」とは、どういう意味でしょうか。
池田 「真実にしてあきらか」、また「永遠不変の真理」という意義です。
ですから大きくみれば「宇宙」、小さくみれば「生命」といったものの実体を、永遠の法則のうえから明確に見極めていく、という意義になりましょうか。
―― そうしますと「空諦」とは、どういうことでしょうか。
池田 簡単に言うと、万法の性質、性分のことです。姿、形あるものには、すべて個としての性質がある。
たとえば、どんな小さな素粒子でも、それぞれ特有の性質が当然ある。
木口 そうです。あります。
池田 この性質や性分をはらんで、因縁によって和合した「仮諦」は、永久にそのままの状態ではなく、必ずいつか滅していくわけです。
しかし、たとえその姿、形を失ったとしても、「空諦」である性質、性分は、存在の属性として永久に残るという意味だと私は思います。
木口 すると私たちの身体がなくなっても、「空諦」、すなわちその人の性分というか、生命の傾向性といったものの働きは、永続するということですか。
池田 そう説かれております。
ですから「空諦」には、二面性がある。
仮諦としての「生」に働きかける場合と、「死」によって、宇宙に冥伏している場合とがあります。
たとえば、生きる姿のときは、自分としての進歩がある。活力がある。無限に創造の力を発揮していく姿がある。
―― 死においては、見ることも、とらえることもできないと思いますが。
池田 そうです。しかし、「空諦」には生命自体の永遠不変の核がそなわっている。
つまり仏法で説く「我」という実体として、厳然と存在していくと説かれているわけです。
―― なるほど、深い哲理ですね。まさに“有無を超えた実在”ということが、私には少しわかる気がします。
木口 まえに池田先生が「われわれの肉体が死んでも生命自体の境涯、つまり『我』というものは存在する」とお話しされた意味がよくわかります。
――それでは「中諦」とは、どういうことになりますか。
池田 「中諦」とは、いま申し上げた永遠不変の生命の核とでもいいましょうか。「空諦」にも、「仮諦」にも、その本源には「中諦」としての「我」というものが常に実在している。
この「我」を成り立たしめている根本というか、発動せしめゆく根源の当体を、大聖人は「中道一実の妙体」として、明快かつ具体的に説き明かされております。
―― そういえば木口さん、よく「核」といいますが、原子の「核」というのは、どうなっているのですか。われわれの肉眼では見ることができないのでしょうね。
木口 ええ、見えません。
―― どんな色をしているのですか。(笑い)
木口 核の運動によって異なりますが、波長がまったく違うので、人間の視覚ではとらえられない色です。
紫外線より、もっと紫がかっていると思えばよいでしょう。
―― 大きさはどのくらいですか。
木口 十兆分の一センチくらいの大きさです。重さも、たとえば陽子の場合、一兆かける一兆個集まって、やっと一・六グラムにすぎません。
―― われわれの身体は、そんな小さなものの集合体となっているわけですか。なるほど、不思議なものですね。
木口 ところが、この目に見えない原子の核も、生成消滅を繰り返すことがわかっています。たとえば、不滅にみえる陽子でさえ崩壊するのです。
―― なるほど。
木口 近代物理学の眼は、この核の生成消滅をつかさどる不変の法則性にと、向けられてきました。
池田 なるほど。生命それ自体に不変の「核」としてそなわる「中諦」という実在も、こうした物理法則のうえからは鮮明に理解できますね。
―― 仏法には「業」ということもありますね。
池田 これは因縁に含まれるもので、この点についても、簡単に申し上げますと、経釈に「果を招くを因となし、また名づけて業となす」とある。この「我」というのは、生死を無限に繰り返すうちに、一定の傾向性がつくられていきます。
―― 生命のクセというようなものでしょうか。
池田 わかりやすく言えば、そうでしょう。それが「業」なのです。
木口 よく「業が深い」というような場合の「業」でしょうか。
池田 それは、業のもつ意味を、一般化させた言葉でしょう。
「業」とは、過去世からの「宿業」と、現世につくりあげた「現業」とがあり、ともに来世にもたらされていく「果」の原因となる、といわれております。
この「業」が冥伏している空間、すなわち「死」が「空諦」になるわけです。
―― そうしますと、「仮諦」である「生」、「空諦」である「死」は、この「中諦」である生命の「我」があらわす二つの不可思議な働きであるということになりますか。
池田 ひとつは、そういえるでしょう。だが、この「三諦」が不可分と説かれたのが仏法の奥義なのです。
ですから、生きている現在についても、色心不二の哲理からいえば、精神面が「空諦」、肉体面が「仮諦」、生命自体が「中諦」ともとらえられる。
さらに「仮諦」としての生にも「三諦」があり、「空諦」としての死にも「三諦」がある。常住する生命自体の「中諦」にも「三諦」があるのです。
そうした、それぞれの「三諦」が調和し、秩序ある姿をとっていることを、「円融の三諦」と説いております。これが法華経の極説中の極説となっております。
さらに、大聖人は御文に、「此の円融の三諦は何物ぞ所謂南無妙法蓮華経是なり」と示され、「空仮中の三諦」が完璧に円満、円融することが、根本である。その実体は「南無妙法蓮華経」の一法なりと仰せなのです。
「無上宝聚不求自得」の意味
木口 なるほど、仏法はどこまでも深遠ですね。
池田 ですから仏法は、大なる宇宙、小なる宇宙のありのままの姿をとらえ、そして人間、社会のよりよき生成発展を遂げさせゆく万物万法の調和と秩序と、創造と蘇生への無限のエネルギーを示しているわけです。
―― なるほど。
池田 この円融の三諦たる「南無妙法蓮華経」が、即、一幅の漫荼羅として顕されたのが三大秘法の御本尊です。
この御本尊に唱題していくことは、この法義のうえからも、清浄にして円融円満の人格の完成に通ずる、ということがわかる気がします。
その確かなる人間完成への英知と情熱は、常に人々の幸福を志向し、平和へと広がっていく。
―― 素晴らしいことですね。
池田 “幸福”というものは、だれしもが願い、それを求めて行動している。だが「煩悩・業・苦」のわが身は、いかんともしがたく、自身の満足感の永遠性もない。
木口 よくわかります。人生をまじめに思索していった場合、どうしても、そこにいきついてしまう……。
池田 それが唱題の絶大なる力により、「法身・般若・解脱の三徳と転じて」、自身が幸せと思う方向へ、さらには人々のため、社会のために行動、貢献しゆく方向へと転じ、流れが変わっていく。
木口 なるほど。
池田 ですから、日蓮大聖人は「無上宝聚不求自得」とおっしゃっておられます。
この万人が自身の境涯からは想像だにしない幸福境涯を得る。しかも心から納得するに足る、具体的実践方途を示されたところに仏法の精髄がある、と私は思っております。