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某氏の投稿より引用。
図斉さん破折論文『戸田先生のご命日に思うー「教学要綱」への疑問』をようやく完読することができました。すでに精読された方々が多いと思いますが、私なりに”図斉さん、おっしゃる通りです!”と心で叫ぶことができたところを抜粋して抽出し、自身の糧としてまいりたいと思います。以下、上記論文からの抜粋でありますが、ここの部分の文は、図斉さんと親交がある中村誠氏の著作「『創価学会教学要綱』の意味するもの」で論考されているものであります。
「御書根本」と言っても、御書には表面的にとれば互いに矛盾する内容も多くあります。膨大な御書を自分勝手な判断のもとにどれだけ読み込んでも結局は迷路にはまり、身延派のようなものになってしまいます。だからこそ大聖人に常随給仕し、大聖人の御本意を正しく継承された日興上人を基準にしなければならないのです。(p60)
戸田・池田先生が日寛上人を重要視する姿勢も当然と言えば当然でしょう。御書を正しく解釈できる師匠の存在というのが非常に大事なのです。古くは日寛上人、現代では牧口・戸田・池田先生ということが言えます。御書根本というのは聞こえは良いが、真筆御書のみにこだわると、初心者は間違いなく迷路にはまり、釈迦の弟子日蓮という身延派の邪義にはまるでしょう。これこそが執行部の狙いでもあります。相伝書が学術的に信用ならないものであるならば、真筆御書を用いてその内容を証明すれば良いだけであり、執行部の態度は完全に間違ってますね。(p60)
ああした態度というのは、ひらがな御書は低級だからという理由で焼き捨てた五老僧に通じるものです。又、庶民を見下して権力を重んじる腐った精神が背後にあるのではとさえ感じられます。このような精神こそが僭聖増上慢の特徴だと思います。御書根本の美名の名の下に、安易な読み方をさせて、釈迦の弟子日蓮という身延流の読み方に学会員を導こうとする「教学要綱」の悪巧みが背後にあり、身延を破折し尽くした日寛上人を、なぜ嫌うのかという理由がここにあると思います。(p60)
御書を正しく解釈できる師匠の存在というのは非常に大事です。我々学会員が求めているのは、永遠の師匠であられる牧口・戸田・池田先生が一生を通して信仰されたものと全く同じ内容の信仰であり、それを装った「別の何か」は誰も求めていないはずです。(p61)
図斉修さん・中村誠さん、おしゃる通りです!!